るだろうが、もし、それをきかない時は、この殿様が御自身手を下して、あんな奴を御成敗――といっても、人間はダラシがないにはないけれども、船としてはいま無くてならない人になっているあのマドロス、殿様もあれを失いたくはなくていらっしゃるだろうから、思い切った御成敗をなさるわけにはゆかない、そうすると、あれが増長する。
 お松は、どうかして、この殿様をあの場へやりたくない。できることなら自分が出向いて取締りをつけてやりたい。しかし、ああなっては気ちがいよりも怖いのだから、わたしの力なんぞではどうすることもしようがない。
 ああ、困ったことだ。
 お松は、じりじりとじれる足どりで、駒井に従いながら、実はその行手に立ちふさがりたい心持です。
 こうして、一歩一歩乱闘の室に近くなった時分に、急にそのけたたましい喧噪《けんそう》がいくぶん緩和されたような気分になったのは意外でした。それでも、たしかにそうです。獣の狂うような渦巻が急にいくらか和《やわ》らかになってきたようだと感じた途端――女の声で、
「マドロスさん、いいかげんになさい、そんな乱暴をしないで、わたしのところへ来てお休みなさい、まだ夜が明け
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