くまで昂上してきた茂太郎の感興を一時に打破るがものはありました。前両足を揃えて、耳を筒の如く立て、眼をらんらんと光らせて、そうして遠くこし方の岸上を見込んで、身の毛を簑《みの》のようによだてて立ち上った瞬間を最初に認めたのは、清澄の茂太郎ひとりでしたけれども、その凄気《せいき》に襲われたのは船の人すべてでありました。
「どうしたのだ、茂――」
「ムクが……」
「いいからもっと踊らないか」
白雲が茂太郎の踊ることをむしろ奨励してみましたけれど、茂太郎の耳には入りません。
と同時に、ムクが吼《ほ》えました。遠く岸上をのぞみながら吼え立てました。その吼え声が、またしても可憐なる女詩人を渾身《こんしん》からふるえ上らせずにはおかない。
「あ、ムクが……」
この急に存在を持上げた巨犬が、ザンブとばかりに海中へ飛び込んだので、満船の人がまた慄《ふる》え上りました。
最初は、茂太郎と相抱いて飛び込んだかと思われるほどでありましたのに、よく見ると、飛び込んだのはムクだけで、茂太郎は確実に舟のうちにこそあるが、その手と心は、まっしぐらにムク犬のあとを追いかけているのです。
それを後にして、犬が
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