てわたしは、どちらも憎めないばかりでなく、弁信さんだから申しますが、わたしはどちらをも愛しているのです、どちらもわたしは好きな人で、どちらをも憎めないでいます」
「あなたのそれは、世にいう娼婦の情けというようなものではありません」
 この言葉が、お雪ちゃんにはよくわかっていなかったが、
「そういうわけではありませんが、今度の人は宇津木兵馬さんというのが本名で、それも今日にはじまった縁ではなく、上野原以来、奇妙な縁がつながっているのです。でも、あの人がいては、弁信さんに限っての話ができませんから、こうしてあなたの後を追いかけて、こんなところでゆっくりお話のできるのがかえって安心だと思いました。まあ、何からさきにお話ししていいかわかりませんから、思いついたまま、順序なくお話をしますから、弁信さん、ゆっくり聞いて下さいな」
 お雪ちゃんはこう言って、なんとなく暢々《のびのび》した気にさえなったのです。先程からの急促した気分はようやく消えて、ここではじめて、昔馴染《むかしなじみ》に逢って、心ゆくばかり話のできるような気分にさえなりました。
 だが、あたりの光景を思い合わせると、決して左様な暢気《のんき》なものばかりではないのです。ただ、今日は不思議に噴火の爆音が途絶えたような気がする。毎日毎日連続的に聞かされていた焼ヶ岳方面の火山の音というものが、今日に至って終熄《しゅうそく》したというわけではないが、噴烟《ふんえん》はここ十里と隔たった高山の宮川の川原の土手までも、小雨のように降り注いでいるのです。
 ですから、天地はやはり晦暝《かいめい》という気持を如何《いかん》ともすることはできません。弁信の方は最初から、それは滞りがありませんでしたけれども、このごろ怖れおののいていたお雪ちゃんが、今はそれをさえ忘れて、春の日に長堤を歩むような気分に、少しでも打たれていることは幸いでした。ここで、弁信に向ってお雪ちゃんが、一別以来のことを、それから宮川の堤の長いように語り出しましたが、いつもお喋《しゃべ》りの弁信がかえって沈黙して、いちいちお雪ちゃんの言うことに耳を傾けながら、緩々《ゆるゆる》として歩いて行くのであります。お雪ちゃんとしては、白骨山中のロマンスや、グロテスクのあらゆる経歴を説いて、いかにあれ以来の自分の身の上が数奇を極めたかを、弁信の頭の中に移し植えようと試むるらしい
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