お雪ちゃんは何と挨拶していいか、悲しい面《かお》をして立ち迷うよりほかになくなっているのを、弁信は、そっけないもののように、
「では、わたくしは、これからそのお雪ちゃんのあるべくして、あるべからざるもののために出かけてまいります」
と言って、腰を一つかけるでもない弁信は、さっさと歩き出してしまいました。
「まあ、待って下さい、弁信さん」
お雪ちゃんは、たまり兼ねて跣足《はだし》で飛び出したところへ、出逢頭に宇津木兵馬が帰って来ました。
宇津木兵馬は、そのあわただしい光景を見て非常に驚きましたけれども、追いかけるお雪ちゃんよりも、追いかけられる当人が、あまりに痛々しい、弱々しい、見すぼらしい、おまけに盲目《めくら》としか見えない小坊主でしたから、それを遮《さえぎ》りとどめようとする気になれませんでした。
いったん跣足《はだし》で飛び下りたお雪ちゃん、それでも草履《ぞうり》を突っかけたまま、坂路を下りて行く弁信のあとを、息せき切って追いかけました。追いかけると言ったところで、相手が、七兵衛でもがんりき[#「がんりき」に傍点]でもありませんから、お雪ちゃんにも雑作なく追いつくことができました。
追いついてさえしまえば、ここでお雪ちゃんが、弁信を手放してしまうはずはないにきまっております。
二十三
それから暫く経つと、宮川の岸の人通りの淋しい土手の上を、極めて物静かに肩を並べて歩いているお雪ちゃんと弁信とを見ることができました。
「よくわかりました、弁信さんのおっしゃることが、すっかり呑込めてしまいましたから御安心ください……わたしも、こうして、あなたを追いかけて来たのは、この辺でゆっくりとわたしからお話をしたいことがあったからなのです、あの寺ではくわしいお話のできない事情がありましたものですから」
「左様でございましたか」
「弁信さん、ほんとうにわたしは、物語にも書けないほど奇妙な縁に引かされて、きわどいところに身を置かされており、どちらにも同情を持たなければならないのに、そのどちらもが敵同士《かたきどうし》とは、因果なことではありませんか」
「そうでございますね」
「昨日までは、わたしはあの人のために、身を捧げて介抱をしておりましたが、今日はそれを敵と覘《ねら》う人の情けを受けて、知らず識《し》らず生活を共にしてしまっているのです、そうし
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