大菩薩峠
不破の関の巻
中里介山

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)普請《ふしん》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)河村|瑞軒《ずいけん》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「酉+慍のつくり」、第3水準1−92−88]
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         一

 経済学と科学が、少しく働いて多く得ることを教えると、人間の慾望はそれに拍車を加えて、ついには最も少しく働くか、或いは全く働かないで、最も多くをせしめるように増長して行こうとするのに、最も多くを働いて、最も少なく得ることに満足し、それを楽しんで生きて行くものがあるならば、それは奇特というよりは、馬鹿という部類のものに属すべきものの仕事でしょう。
 ところが、与八の働きぶりというものがそれでした。
 この男が、甲州有野村の藤原家の普請《ふしん》に参加してから、過失といっては、暴女王の残して行った悪女塚を崩したということのほかには過失が無く、仕事としては、ほとんど何人前か計上しきれないほどの仕事をしていることは、疑いがありません。
 しかし、その仕事の多寡《たか》を計算して、労銀を払い渡すという時になると、与八はいない。いないのではない、姿が見えなくなるのです。この男は自分が何時間働いた上に、自分の持つ労力は常の人の何倍に当るから、これだけの労銀を与えられなければならぬということを主張した例がないから、与えられる時の元締の計算は、やっぱり普通一人前の人夫の計算にしかなりません。
 でも、苦情も不平も出ないのは、当人がその分配の席にいないからです。それで、頭割りをする役割は、当人の主張の無いのに、当人に代って割増しを主張するほどの好意はないから、常人足並みの労銀が、組の者に托して与八に向って支給されて納まってしまうのです。
 それにしても、一人や二人は、与八という特種人物の力量が抜群であって、仕事ぶりに蔭日向《かげひなた》というものがないという点ぐらいは認めてやる者があってもよかろうと思われるが、それすら無いというのは、証跡がかくれてしまっているのです。
 つまり、与八はその非凡な力量を以て、常人の幾倍に当る仕事をしていることは確実なのですが、その仕事は、蔭日向がな
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