が、弁信としてはいっこう感じたようでもあり、いっこう感じないようでもあり、ただ不思議に、あれほどのお喋りが一言も加えないで、お雪ちゃんの話すだけを、長堤の長きに任せて、話させて、歩調だけを揃えているのです。こうして、長い時の間、弁信はお雪ちゃんにお喋りの株を譲って、自分は全く争うことをしなかったが――その甚《はなは》だ長い時間の後に、
「お雪ちゃん、ちょっとお待ち下さい、誰か人が来るようですから」
そこで、お雪ちゃんが、はじめて長いお喋りの腰を折られました。
「え」
と言って、四方を見廻すには見廻したけれども、ここは長堤十里見通し、その一目見た印象では、誰も土手の前後と上下を通じて、人の近づいて来るような気配はありません。人の気配には気がつかなかったのですが、お雪ちゃんが、そのとき愕然として驚いたのは、直ぐ眼の前の宮川の岸辺に漂うた破れた屋形船であります。
ああ、思い出が無いとは言わせない、この屋形船――あの大火災の時の避難以来。
それと同時に眼を移すと、遥かに続く蘆葦茅草《ろいぼうそう》の奥に黒い塚がある。
あ、イヤなおばさん――お雪ちゃんの面《かお》の色が変りました。
「たれか人が来ますねえ」
それに拘らず、弁信は、長堤十里見通しの利《き》くところで、人の臭いの近いことを主張してやみません。
その途端のこと――思い出の屋形船の一方の腐った簾《すだれ》がザワついたかと見ると、それが危なっかしく内から掻《か》き上げられると、ひょっこりと一つの人間の面《かお》が現われました。その思いがけない人間の面の現出が、お雪ちゃんを驚かすと同じように、先方の面の持主をも驚かしたと見えて、現わすや否やその面を引込めてしまいました。
この場合、先方よりはこちらの方が予備感覚のあっただけに、認められることが遅く、認めることが早かった勝味はありました。
先方の当の主はおそらく、こちらが何者であるかということは突きとめる余裕がなくて首を引込めたことがたしかと見られるのに、こちらはその瞬間にも、存外よく先方の面体を認めることができたのです。
お雪ちゃんは、その瞬間の印象では、この辺で、ちょっと灰汁抜《あくぬ》けのしたイナセな兄さんだと認めると共に、どうもどこかで見たような男だと感じました。
だが、わざわざ物好きにあの捨小舟《すておぶね》を訪れてみようという気もせず、むしろ
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