、うちの兄さんは、決してそんな悪党ではありませんでした」
「何を言ってるんだい――おれがお前、お代官の首をちょんぎったり、それをお前、中橋の真中で曝《さら》しにかけたり、そんなだいそれた芸当のできる兄さんと思っていたのかい」
「でも、ほかに、あれほどの事をやりきる人は、まずこの高山にはありませんからね、それで、もしやと兄さんを疑ってみたんですが、その疑いがようやく晴れたから御安心なさいと、そう言ってあげているんですよ」
「自分勝手に、ありもしねえ疑いをかけておきながら、疑いが晴れたから安心させて遣《つか》わすなんぞは、あんまり有難くねえ」
「ですけれども、すっかり疑いが晴れてしまったわけじゃないのよ、まだ充分に疑いの解けない点もありますのよ」
「疑いの解けない点と来たね、その点を、ちょっとつまんで見せてもらいてえ」
「お代官様をあんなことにしたのは、お前さんの仕業じゃないにしても、お蘭さんを連れ出したのは、どうも臭いよ……そればっかりはまだ疑いが解けないねえ」
「へえ、してみると、あのお蘭さんというみずけたっぷりなお部屋様をそそのかして連れ出したのが、この兄さんだろうと、今以て疑念が解けなさらねえとこういうわけなんですか」
「ところが、実のところは、それもすっかり疑いが解けてしまったはずなんですけれども、どうも、それでもなんだか臭いところがあると思われてたまらないのさ」
「御念の入ったわけだが……どうもわっしにゃ呑込めねえ」
「それじゃ、疑いのすっかり晴れた理由と、まだ晴れないわけとを、よく説きわけて上げるから、お聞きなさいよ」
と言って福松は、がんりき[#「がんりき」に傍点]の手から長煙管をひったくるように受取って一服のみ、
「わたしは、お代官をやっつけて、お蘭さんはどこぞへさらって行って隠して置く悪い奴は、最初のうちは、てっきりお前さんのした仕事のように思われてならなかったのさ、ところが、きのうになってようやく確かな筋から聞いたところによると、お代官を殺したのは、ある腕の利《き》いた浪人者で、それがお蘭さんとかねて出来ていて、お蘭さんが手引をしてあんなことをさせ、そうしてあらかじめ早駕籠《はやかご》を用意して置いて、人が追いかける時分には、もう国境《くにざかい》を出てしまって、手がつけられなくなっている、ということを聞いたから、それで安心しましたの」
「なるほど
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