る。
「今日もお茶よ」
 委細心得て、長火鉢の前にがんりき[#「がんりき」に傍点]を引据えた福松の投げつけるような御挨拶、この芸妓はこの間の晩、やっぱり柳の下で、だらしのない、しつっこい芸当をしきりに演じていた兵馬なじみの芸妓であり、お代官の思われ者であり、当時、高山では売れっ妓の指折りになっているのだが、昨今の天災続きで、ここ随一の流行妓《はやりっこ》も、このごろはお茶を引かざるを得なくなっている晩である。
「いやんなっちゃあな」
 米友の口調めいたことをがんりき[#「がんりき」に傍点]が言う。
「全くいやになっちゃいますね、ただ不景気だけならいいが、人気がすっかり腐って、世の中がこわれちゃいそうなんだから」
 福松はこう言いながら、吸附煙草をがんりき[#「がんりき」に傍点]にあてがう。
 この野郎、もう僅かの間に、このぽっとり者へ渡りをつけてしまったものと見える。ぽっとり者の方でも、この高山の土臭いのや、郡代官のギコチないのより、口当りだけでも、きっぷのいい江戸ッ子気取りの兄さんを用いてみたい心意気があったものと見える。
 がんりき[#「がんりき」に傍点]は、抱え込んで来た小箱の包みを下へ置いて、長煙管《ながぎせる》を輪に吹いていると、芸妓の福松が頬っぺたを兄さんにくっつけるようにして、
「兄さん、もう疑いが晴れたから、許してあげよう、今晩からここへお泊りな」
「う、ふ、ふ、何かお前に許していただくような悪いことをした覚えがあるかねえ」
「大ありさ。だが、少し罪が軽くなったというまでのことで、まだ無罪放免というわけじゃないんだから、ここへ泊めて上げるには上げるが、ひとりで出歩きはなりませんよ」
「おや、何とか言ったね――どうやらおいらは兇状持ちででもあるかなんぞに、お前という人からイヤ味を言われるのは、きざ[#「きざ」に傍点]だけじゃすまされねえぜ」
「そういうわけではないんですよ、わたしは皮肉に出ているわけでもないのですが、御縁だから兄さんを大事にして上げたいとこう思っている親切気から、そう言ってあげるのだわ。内実のところは、わたしゃ、てっきり兄さんと睨《にら》んでいたのよ。というのは、お代官様のあの一件ね、あんなすさまじいことをやる人は……もしやわたしの兄さんじゃないかしらと、もっぱらこう疑っていたんですけれど、堪忍して下さい、わたしの的が外《はず》れました
前へ 次へ
全220ページ中61ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング