オ嬢サン」
「ええ、いただきましょう」
「ワタシオ相伴スル、嬉シイ」
また、色の白いふっくりしたお饅頭を、二つに割って、半分ずつ、ふたりなかよく夢中で食べ合っている。
「もゆる子サン、モウ一ツ食ベマショ」
「もう、わたしたくさん」
「モウ一ツ食ベナサルコトヨロシイ、残レバワタシ食ベル」
「では、もう一つ割って――みて下さい」
マドロスは、三つ目の色の白いふっくりしたお饅頭を割って、またも半分ずつ二人で仲よく食べようとすると、入口のところで、いきなり、
「マドロスさん、どこにいるかと思ったら、こんなところに――やあ、お嬢さんと二人で旨《うま》そうなお饅頭を食べていやがらあ、隠れて自分たちばかり、おいしいお饅頭を食べるなんて罪だぜ」
遠慮なく大きな声をして、二人をびっくりさせるのは、清澄の茂太郎でありました。
六十八
船を送り出して、自分ひとりは田山白雲のあとを追って陸路をとった七兵衛は、難なく九十九里の浜を突破して、香取、鹿島に着きました。
たずぬる人の行方《ゆくえ》は、漠然たるようで、実はなかなか掴まえどころがありました。香取でも、鹿島でも、足あとを手繰ってみると、まさしく、それらしい人の当りのつかないというところはありません。それというのは、一つは天性盗癖ある者は、同時に機敏な探偵眼をも備えていて、七兵衛の追い方とたずね方が要領を得ていたせいかも知れないが、もう一つは、白雲そのものの人品骨柄が、目立たざるを得ない特徴が物を言い、到るところで、
「その武者修行のお方なら、かくかくで、これこれのところへおいでになりましたのが、それに違いごんすまい」
画家という者はなく、武者修行の剣客とのみ見られている。事実また当人も画家と言わず、剣術修行を標榜して渡って来たのかとも思われる。そこで七兵衛は、上手な猟犬が獲物を追うと同じことで、あとをたどりたどり、臭いをかぎかぎ、ついに勿来《なこそ》の関まで来てしまいました。
勿来の関へ来てみたところで、七兵衛には、白雲のような史的回顧も、詩的感傷も起らないのだが、それでも、ここが有名な古関の跡と聞いてみると一服する気になって、松の根方へ腰を下ろして煙草をのみはじめたものです。
そうしていると、白雲ほどの内容ある感傷は起さなかったが、ただなんとなく、人間も楽はできないものだとしみじみおもわせられました。
現に駒井の殿様なんぞが、あれだけの器量と、学問と、門閥とを持ちながら、江戸にも甲州にもおられずに、あの房州の辺鄙《へんぴ》にひとり研究をしていらっしゃる、そのことすらも邪魔をされて、結局日本の土地にいつかれないのだ、ということを考えさせられてみると、自分たちの如きが世間を狭くするのも、やむを得ないことだが、また、前途の新しい生涯のことを考えると勇みをなさないではおられません。
駒井の殿様は、船で海外のいずれにか新天地を開きなさるについては、どうしても百姓からはじめなければならぬ、それには万事お前に頼む、お前の指図によって、自分も痩腕《やせうで》で農業を覚えるのだ、お前に農業を仕込んでもらうことが、わしの事業の第一歩の学問だからよろしく頼む、と言われた。
どうも、有難いやら、勿体《もったい》ないやら、たまらない気持がした。なにも駒井の殿様が農業をなさるからといって、そんなに有難い、勿体ないはずはないのだが、天子様でさえも、百姓を大御宝《おおみたから》とおっしゃって、御自分も鍬《くわ》をとって儀式をなさる例もあると聞いていたのだから、駒井の殿様に限って、それを勿体ながるはずはないが、それでもなんだか、自分が尊くも勇ましくも感じて、涙がこぼれるほどであったのだ、自慢ではないが百姓ならば本業で、武蔵野の原で鍛えた腕に覚えがある、内職の方の興味と宿業が、ついつい今日までの深みにはまらせてしまったのだが、自分は本来、百姓が好きなのだ、好きな百姓を好きなように稼げない運命のほどが、自分の曲った内職を助長する結果になってしまったのだが、これから誰|憚《はばか》らず本職に立戻れる愉快。
駒井の殿様から頼まれて、農具の類《たぐい》もあとから買い集めて船へ積込んで置いたが、なお不足の部分は石巻へ行って買い足すことにしてある――種物類も、得られるだけは集めておいたが、なお奥州辺には変った良種があるだろう、この途中でもその辺を心がけておきたいもの。
そういうことを考えて、七兵衛は腰を上げて、勿来の関を下って聞いてみると、ここで田山白雲の影がいっそう鮮かになってしまいました。
今までは武者修行の、剣客の類であろうとのみ見られていたのが、ここでは明らかに絵師としての記憶に残っていて、その人を現に小名浜の網旦那の許まで送り込んだという現証人さえある。七兵衛は直ちに小名浜の網旦那をたずねてみると、なおいっそう明快にその消息がわかりました。
ここに逗留すること二日、山形の奇士と会して共に北上したということを聞いて、そのあとを追ったが、それから先が茫としてわからなくなりました。
七兵衛は、提灯《ちょうちん》が消える前に一度パッと明るくなるような感じがしました。小名浜でハッキリしたものが、平《たいら》へ来るとさっぱりわからなくなってしまったのです。
それというのは、小名浜までは白雲先生一人旅であったが、あれから道づれが出来たことになっている。一人旅としての目的は陸前の松島へ行くことに間違いなかったが、二人連れとなってから誘惑を蒙《こうむ》ったものらしい。そうしてその一人の奇士に誘われて、どうも松島行きの道を枉《ま》げることになってしまったらしい。
してみると、ここでも七兵衛は亡羊の感に堪えられません。
いずれ目的は松島にあることに相違はないと聞いているが、あの人のことは、気分本位でどう変化するかわからないし、職業本位としても、必ずしも沿道を飛脚のように行くべき責任はないのだから、さあ、この磐城平《いわきだいら》を分岐点として、海岸伝いにずんずん北へ行ったものか、或いは左へ廻って奥州安達ヶ原の方へでもそれたものか。
ここで七兵衛は種々なる探偵眼と猟犬性を働かしてみたけれども、さっぱり効《き》き目がありませんでした。或いはこの町へかからずに間道をまわったのではないか、そうでなければこの町のいずれかに足をとめているのではないかとさえ疑われたが、とうとうもてあました七兵衛、どのみち、道草にしても大したことはあるまい、行先は陸前の松島の観瀾亭《かんらんてい》というのにあることは、小名浜の網主の家でよく確めて来たから、先廻りをしてあちらに着いて、仙台の城下でも見物しながら待っているのが上分別――と、七兵衛はついに思案を定めて、ひとり快足力に馬力をかけて磐城平を海岸にとり、北へ向って一文字に進みました。
六十九
磐城平で七兵衛を迷わしめたも道理、田山白雲は、当然行くべかりし海岸道をそれて、意外な方面に道草を食うことになっていました。
その消息は、駒井甚三郎に宛てた次の手紙を見るとよくわかります。
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「(前略)鹿島の神宮に詣《まう》で候へば、つい鹿島の洋《なだ》を外《よそ》に致し難く、すでに鹿島洋に出でて、その豪宕《がうたう》なる海と、太古さながらの景を見るうちに、縁あつて陸奥の松島まで遊意飛躍|仕《つかまつ》り候事、やみ難き性癖と御許し下され度候。
かくて北上、勿来の関を過ぎて旅情とみに傷《いた》み候へ共、小名浜の漁村に至りて、ここに計らずも雲井なにがしと名乗る山形の一奇士と会し、相携へて出発、同氏にそそのかされて、磐城平より当然海岸伝ひに北上いたすべき道を左に枉《ま》げ候事、好会また期し難き興もこれあり候次第、悪《あ》しからず御諒察下され度候。
松島の月も心にかかり候へども、この辺まで来ては白河の関、安達ヶ原、忍《しの》ぶ文字摺《もじずり》の古音捨て難く候ことと、同行の奇士の談論風発、傾聴するに足るべきものいと多きものから、横行逆行して、つひに今夜白河城下に参り、都をば霞と共に出でしかど、秋風ぞ吹くといふ古関のあとに、徘徊《はいかい》去るに忍びざるものを見出し申候。
白河の関址と申すところは、一の広袤《くわうぼう》ある丘陵を成し、樹木|鬱蒼《うつさう》として、古来|斧斤《ふきん》を入れざるものあり、巨大なる山桜のさるをがせを垂れたるもの、花の頃ぞさこそと思はれ申候。この森を中に入り歩む心地、出でて遠くながむる風情《ふぜい》、いかにも優雅なる画趣|有之《これあり》、北地のものとは見えず、これに悠長なる王朝風の旅人を配すれば、そのまま泰平の春を謳《うた》ふ好個の画題に御座候。
これより須賀川、郡山、福島を経て仙台に出づる予定に御座候。
沿道に見るべきものとしては、二本松附近に例の鬼の棲むてふ安達ヶ原の黒塚なるもの有之《これあり》候、今ささやかなる寺と、宝物と称するもの多少残り居り候由。
文字摺石《もじずりいし》、岩屋観音にも詣で参るべく、須賀川は牡丹園として海内《かいだい》屈指と聞けど、今は花の頃にあらず、さりながら、数百年を経たる牡丹の老樹の枝ぶりだけにても観賞の価値は充分有之と存じ居候間、これにも参りて一見を惜しまざるつもりなれど、儲《まう》け物としては、この須賀川の地が亜欧堂田善《あおうだうでんぜん》の生地なりと聞いてはそのままには済まされず候。
御承知の如く亜欧堂田善は司馬江漢と共に日本洋画の親とも称すべき人物に御座候。遠くは天草乱時代に山田右衛門作なるもの洋画を以て聞えたる例これありといへどもその証跡に乏しく、近代の実際としては田善、江漢を以て陳呉と致すこと何人も異存は無きものと存候。
且又、田善は洋画のみならず、洋風の銅版を製することに於て、日本最初の人に有之候。その苦心のほどを聞く処によれば、適当の銅板なきために、自ら槌《つち》を振つて延板を作り、以て銅板の素地を作り候由、蝋《らふ》を使用する代りに、漆《うるし》を一面に塗り、それに鼠の歯を以て彫刻を施し候由、而して出来上り候原版を腐蝕せしむる薬品としては、自身多大なる苦心の上に発明候由、なほ一層苦心したるは右印刷に用ゆるインキにて、種々の試みのうちには、芸妓の三味線の撥《ばち》を購《あがな》ひ来りてそれを黒焼にしてみたることなども有之候由、何によらずその道に対する創始者の苦心容易ならざるもの有之、これ等の点は特に貴下御肝照の事と存じ申候。
また文晁《ぶんてう》の如きもこの地に遊跡あり、福島の堀切氏、大島氏等はその大作を所蔵する事多しと聞き候、これも一覧を乞はばやと存じ候。
それとは別の方面なれど、白河に於ける楽翁公、山形の鷹山公等について同行の奇士より種々逸伝評論を聞き、大いに啓発を蒙り候点も有之候へ共、秋田の佐藤信淵の人物及抱負については、特に感激するもの有之候。聞くところによれば、佐藤信淵の経国策はかねて貴下より伺ひ候渡辺崋山の無人島説どころのものにあらず、規模雄大を極めたるものにて、特に『宇内《うだい》混同秘策』なる論説の如きは、日本が世界を経綸すべき方策を論じたるものにして、その論旨としては第一の順序として日本は北|樺太《カラフト》と黒竜洲を有として満洲に南下し、それより朝鮮を占め、満洲と相応じ、一は台湾を以て南方|亜細亜《アジア》大陸に発展するの根拠地とし、更に一方は比律賓《ヒリツピン》を策源として南洋を鎮め、斯《か》く南北相応じて亜細亜大陸を抱き、支那民族を誘導して終に世界統一の政策を実行すべしといふ事にある由、その論旨も、軍国主義或は侵略手段によるにあらずして、経済と開拓とを主とする穏健説の由。
方今、日本に於ては朝幕と相わかれ、各々蝸牛角上の争ひに熱狂して我を忘れつつある間に、東北の一隅にかかる大経綸策を立つる豪傑の存在することは、懦夫《だふ》を起たしむる概あるものには無之候哉。
なほ又、当時、日本の人物は西南にのみ偏在するかの如く見る者有之やうに候へ共、北東の地また決して人材に乏しきものに非ず、上述の亜欧堂の如きは一画工に過ぎずといへども、なお
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