大菩薩峠
弁信の巻
中里介山

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)草鞋《わらじ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)当然|介添《かいぞえ》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「りっしんべん+瑾のつくり、320−3]
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         一

「おや、まあ、お前は弁信さんじゃありませんか……」
と、草鞋《わらじ》を取る前に、まず呆気《あっけ》にとられたのは久助です。
「はい、弁信でございますよ。久助さん、お変りもありませんでしたか、お雪ちゃんはどうでございます」
「お雪ちゃんも、無事でいるにはいますがね……」
「なんにしても結構と申さねばなりません、本来ならばあの子は、この白骨へ骨を埋める人でございましたが、それでも御方便に、助かるだけは助かりましたようでございます。お雪ちゃんは、当然ここで死なねばならぬ運命を遁《のが》れて、とにもかくにも、無事にこの白骨を立ち出でたのは果報でございました。誰も知らないお雪ちゃん自身の善根が、お雪ちゃんの命を救ったのはよろしいが、かわいそうに、あの子の身代りに死んだ人がありましたね」
「何を言うのです、弁信さん」
 炉辺閑話《ろへんかんわ》の一座の中では、最も臆病な柳水宗匠が、わななきながら唇を震わせますと、
「はい」
 弁信は、おとなしく向き直って、
「あの子が、この白骨へ旅立って参りまするその前から、わたくしはあの子の運命を案じておりましたが、その道中か、或いはこの白骨へ着いた後か、いずれの時かに於て、あの子の運命が窮まるということを、わたくしのこの頭が、感得いたしました。ですけれども、それを引止める力がわたくしにございませんでした。世の中には、こうすればこうなるものだと前以てよく分っておりながら、それを如何《いかん》ともすることのできない例《ためし》はいくらもございますのです。わたくしとしましては、そんな事まで、お雪ちゃんという子の門出を心配しておりましたにかかわらず、お雪ちゃん自身は、白骨へ行くことを、お隣りのでんでん町へでも行くような気軽さで、楽しそうな様子でございました。あの子もやっぱり物を疑うということを知らない子でございます。疑いの無いところに怖れというものも無いわけでございますが、怖れを怖れとしない本当の勇気は、疑いを疑いきった後に出てこなければならないのですが、お雪ちゃんのは、最初から疑いを知らないのです。突き当るまでは信じきっていて、突き当ってはじめて苦しむのですからかわいそうです。ただ心強いことには、あの子はやはり突き当って、自分が苦しみながらも、自分を捨てるということがございません、その一念の信を失うということがございません、九死の中の苦しみにいても、絶望の淵へは曾《かつ》て落ちていないということがせめてもの安心でございます。ですからわたくしは、蔭ながらいかにあの子の悲痛を思いやってはおりましても、あの子の身の上に、全くの絶望ということを感じないのが一つの心強さでございましたが、なんに致せ、あのように疑いを知らぬ人の子を長く迷惑の谷に沈めて置くというのは忍びないことでございます――白骨を無事に立ったとはいうものの、やっぱりあの子は苦しんでいるに違いありません」
 この時、草鞋《わらじ》を取って洗足《すすぎ》を終った久助が炉辺へ寄って来て、
「北原さん、これがあなたへ宛ててのお雪ちゃんの手紙でございます、口不調法な私には、何からお話を申し上げてよいか分りませんが、これをごらん下さると、すべてがお分り下さるでございましょう」
「お雪ちゃんからのお手紙ですか」
 北原はそれを受取って、燈火の方に手をかざして封を切りながら、自分も読み、人も差覗《さしのぞ》くことを厭《いと》わぬ形で読んでしまいましたが、
「おやおや、高山で火事に遭って、お雪ちゃんは身のまわりのものそっくりを焼いてしまいましたね」
「いやもう、飛んだ災難で、あなた方にお暇乞いもせず、逃げるようにここを出て行きましたくせに、今更こんなことを手紙であなた方へ申し上げられる義理ではございませんが、全く旅先で、身一つで焼け出され、九死一生というつらさが身にこたえました」
「君、何だってお雪ちゃんはまた、ここを逃げ出したんだ」
 堤一郎が不審がる。なるほど、誰もお雪ちゃんを邪魔にする者はなし、迫害する者はなし、いたずらをする者もなし、のみならず、すべての敬愛の的となり、ほんとうにこの雪の白骨の中に、不断の花の一輪の紅であったのに、いったい何が不足で、ここを夜逃げをしたのだ……ということが、今以て一座の疑問ではあるのです。

         二

 お雪ちゃんの手紙を逐一《ちくいち》読んでしまった北原賢次は、慨然として、
「だから言わぬ事じゃない」
とつぶやきました。だが、慨然として呟《つぶや》いただけではいられない、事急に迫って、轍鮒《てっぷ》のような境涯に置かれているお雪ちゃんの叫びを聞くと、まず、為さねばならぬことは、走《は》せてこれに赴くということです。
 北原は、忙しく手紙を巻きながらこう言いました、
「今晩というわけにもいくまいから、明早朝、拙者は高山まで行って来るよ。まあ、万事は向うへ行っての相談だが、僕の考えでは、どうしても、もう一ぺんお雪ちゃんとその一行をここへ連れ戻すのだな、そうして予定通り一冬をこの地で越させて、春になってからのことにするさ……とにかく、僕は明早朝、お雪ちゃんを救うべく高山まで出張することにしますから、皆さんよろしく」
 北原が手紙の要領を話した後に、進んでこういって提言したものですから、誰あって異議を唱えるものもあろうはずはありません。
「御苦労さまだね、北原君、この雪だからねえ、誰か一緒に行ってもらわねばなるまい」
 池田良斎が、ねぎらいながら言うと、誰よりも先に口を切ったのは、黒部平の品右衛門爺さんでありました。
「わしも、平湯から船津《ふなつ》へ越さざあならねえから、一緒に高山までおともをしてもいいでがんす」
「品右衛門爺さんが同行してくれれば大丈夫、金《かね》の脇差」
と山の案内者が言いました。
「有難い、品右衛門爺さんが行ってくれる、ではなにぶん頼みますよ」
 北原も品右衛門の名をよろこびました。事実、山と谷との権威者である、このお爺さんが同行すれば、山神鬼童も三舎を避けるに違いないと思われます。
 そうでなくてさえも、品右衛門爺さんに先を越されて、やむなく口を噤《つぐ》んでいた一座の甲乙が、この時一時に嘴《くちばし》を揃えて、
「北原君……拙者も連れて行ってくれないか、安房峠《あぼうとうげ》の雪はいいだろう、それに飛騨の平湯がまたこことは違った歓楽郷だということだし、高山も山間に珍しい風情のある都会だということだから、この機会に、僕も一つ同行を願って、観光の列に加わりたいものだ」
「冗談じゃない、物見遊山に行くんじゃないぞ、まさにお雪ちゃんの危急存亡の場合なんだ――ところで、品右衛門爺さんを先導且つ監督として、拙者が正使に当り、久助さんだけは当然|介添《かいぞえ》として行かにゃなるまいから、同行三人――それで明早朝の約束ということに決めてしまいましょう、ねえ、池田先生」
「それがよろしいでしょう、御苦労ながら頼みます、頼みます」
 北原と良斎とは相顧みてこう言って、もはや緩慢な志願者の介入を許さないことになってしまって、一座もまたこの際、それに黙従の形となって、火は相変らず燃えているのに、一座がなんとなく、しんみりしてきた時、
「え、え、皆様、本来ならばこの際、私が進んで御同行を願わねばならないのですが……」
と、この時膝を進めたのは弁信でありました。
 本来、あのお喋《しゃべ》りが、ここのところで、ここまで沈黙していたのは、不思議といえば不思議であります。縁故の遠い甲乙までが、自分の好奇のためにも、お雪ちゃんの救急のためにも、嘴《くちばし》を揃えて同行を申し出でた際、それよりはもっとずっと馴染《なじみ》の深い弁信が、あの柔軟な舌を動かさずにいたということが変で、また、話がこんなに進んで来た場合に、今まで物《もの》の怪《け》ではないかとさえ驚異の的とされていたこの小法師が、たとえ僅かの間なりとも、一座から存在を忘れられていたということも、不思議な呼吸でなければなりません。
 ところが、この際突然としてまたしゃべり出たものですから、忘れられていた存在がまた浮き出したと同時に、一座がなんとなく水をかけられたような気持になって、神秘とも、幻怪とも、奇妙とも、ちょっと名のつけられない小坊主の、平々洒々としてまくし立てる弁説の程に、なんとなくおそれを抱かせられでもしたもののようです。こんな気配にはいっこう頓着のない弁信は、一膝進ませて、例の柔長舌をひろげはじめた、
「皆様が、こうもお気を揃えて、あのお雪ちゃんという子のために尽して下さる御親切をまたとなく有難いことに存じます。本当ならば、皆様をお煩《わずら》わせ申すことなしに、真先にこのわたくしというものが、あの子を訪ねて、そうして尽すだけの介抱も尽してあげなければならないはずなのに、今のわたくしでは、それができないと感じましたから、やむを得ずさいぜんから差控えておりました。と申しますのは、甚《はなは》だ我儘《わがまま》の次第でございますが、実のところ、わたくしの身体は只今、疲れ切っているのでございます、それに、ここに落着きまして、結構な天然のお湯に温められましてから、その疲れが一度に出てしまったような次第でございまして、たとえ、お雪ちゃんという子が山一重あなたにおりましても、今のわたくしのこの身体では、その山一つを越すのが堪えられますまいと案じられるのでございます。こんなに申しますと、弁信、お前は口ほどにもない意気地なしだな、さきほど玄奘三蔵《げんじょうさんぞう》渡天の苦しみがどうの、なあに、同じ日本の国の信濃の国内がどうのと広言を吐いたそれがどうしたと、斯様《かよう》にお叱りを蒙《こうむ》るかも知れませんが、それはそれでございまして、お湯につかりましてから、わたくしが、全くぐったりと疲れが一時に出てまいりましたことは事実でございます。だが、御安心下さいませ、この疲れは困憊《こんぱい》の疲れというわけではございません、安息の疲れなのでございます。わたくしは行こうと思いますと、いかに病身の身でも行くべき路をさらさら厭《いと》いは致しませんけれど、今は休みたいのでございます。お雪ちゃんの身がどうありましょうとも、皆様を先立て、わたくしが控えておりまして、お義理を欠こうとも欠きますまいとも、わたくしは今日は休みたいのでございます、明日もここで休んでいたいのでございます。あさってのところはどうなるかわかりませんが――今のわたくしの気持は、何事を措《お》いても、ここで暫く休ませて置いていただきたいことのほかにはございません。隣国と申しましても、飛騨の高山まではかなりの道でございましょう、ましてこの大雪でございます、それは品右衛門爺さんが案内をし、屈強な北原さんと、お気の練れた久助さんとがお道連れですから、少しも心配はないようなものの、それでも時候|外《はず》れの今の時に、人の通わぬ山路を御出立なさるのはなんぼう御苦労なことでございましょうか。それをわたくしらがここにいて充分に休みたいなんぞとは申し上げられた義理ではないのでございますが、なぜかわたくしはここで思う存分、三日の間休ませていただきたい気分がしてなりませぬ。北原様、品右衛門爺様――それと久助さん、どうか右のところを悪《あ》しからず御承知くださいませ。ではお頼み申します、ずいぶん御無事に、わたくしが念じおります」
 一息にこれだけのことを言いましたから、一座がまた口をあいてしまいました。なんというおしゃべり坊主、なんというませ[#「ませ」に傍点]た口上の利《き》きぶりだろうと――弁信の顔を見たままでいると
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