、北原賢次も笑っていいのか、ひやかしていいのかわからない気持になって、
「御心配なさるな、弁信さん、誰もお前さんに行ってもらおうとは言わない、お雪ちゃんだって、その姿で弁信さんが来てくれなかったといって恨むようなこともないでしょう――お望み通り三日の間、ここでゆっくり休息なさい、休息しないといったって、我々の方でお前さんを休息させないでは置かれないでしょう」
「そうおっしゃっていただくのが何よりでございます、お雪ちゃんにもよろしくお伝え下さいませ、そうして、もしあの子がここへ戻って来ると言いましたら、お連れ申せるものならば一緒にお連れ下さいませ、また、あの子に戻ることのできない事情がございましたなら、あの子のためにしかるべく取計らってやっていただきたいものでございます。弁信さんはどうしたとお雪ちゃんが尋ねました時には、弁信は白骨に助けられて来ているが、意地にも我慢にも疲れが出て、休みたがっているから置いて来たと、そうお伝え下さいませ。ここまで来ながらどうして一緒に来なかった、一緒にお連れ下さらなかったとお雪ちゃんは怨《うら》むかも知れませんが、怨まれても仕方がございませんが、私に会うためにお雪ちゃんが、これへ戻って来ることはよろしくありません――私の方から尋ねて行くまでお待ちなさるように、お申し伝え下さいませ」
「万事承知承知」
「では、その方はそれと一決して、あらためて日課の輪講に移りましょう、当番は……」
「堤君ではないか」
「時に……久助さんもお疲れでしょう、いつもの部屋でお休み下さい、それと品右衛門爺さんも、我々の輪講がはじまりますからお休みなさい」
 弁信のことは、行けとも行くなとも誰も言いませんでした。

         三

 良斎先生の「万葉」、柳水宗匠の「七部集」宗舟画伯の「四条派に就て」というような輪講が一通り終って後の炉辺の余談が、ついに弁信法師の上に落ちて来ました。
「どうです、あの弁信なるものは」
「驚き入ったものですね、あれはまた何という喋《しゃべ》り方です」
「ああなると、手のつけようも、足のつけようもありませんね、さすがの北原君でも交《まぜ》っ返す隙が無いじゃありませんか」
「喋らしたら、しまいまで聞いていなけりゃなりません、そうかといって、喋らせないように警戒しているわけにもいかないし、聞いていても、そう耳ざわりになるわけではないが……」
「かなわない、何しろ大寒小寒《おおさむこさむ》の時は、山から小僧が飛んで来ることになっているのが、反対に里から小僧が飛んで来たのだから、まさに天変地異だね」
「雪の白骨へ今冬は、かなり変った客人が見えないではないが、あんなのは絶品だね」
「絶品だ、全くよく喋るにも驚かされるが、勘のいいのにも度胆を抜かれるよ」
「久助君が来たのを、その足音もしないうちから感づいているのだから、我々なんぞはもう腋《わき》の下の毛穴まで数えられているかも知れない」
「なんだか少し怖いね」
 事実、さしものいかもの[#「いかもの」に傍点]揃いであるらしいこの座の一行も、弁信のことを考えますと、おぞけを振うらしい。
 そうかといって、魑魅魍魎《ちみもうりょう》でないことの証拠には、お喋りこそするけれども、このお喋りには条理、いや、時とすると条理以上の何物かがあるように聞える――そこで、おぞけを振いながら、妖怪変化の類《たぐい》なりと断ずるわけにはゆかないのです。
 そこで、一座が弁信なるものの、正体に全く無気味なもてあましを感じ出した時、中口佐吉が言いました、
「なあに、それほど驚くこともないですね、どうかすると、盲人にはあんなふうに勘の働くものがあるものですよ。仕立師の名人でね、晩年に失明しましたが、どこへ出るにも不自由のくせに、物差《ものさし》を取らせると、分厘までも違《たが》わずピタリと差す老人を拙者は知っていますがね」
「そう言われてみると、思い当ったことがあります、西鶴の中にありますよ、皆さんお読みですか、井原西鶴の書いた『諸国咄《しょこくばなし》』という本の中に、不思議の盲人のことが書いてあるのを思い出しました」
「どんな話ですか」
「ちょうど、よい機会ですから、お話し申しましょう」
と言ったのは俳諧師の柳水宗匠です。
「京の伏見の豊後橋《ぶんごばし》の片蔭に笹垣を結び、心を行く水の如くにして世を暮しぬる一人の盲人ありけりと思召《おぼしめ》せ……」
「なるほど」
「ある時、問屋町の北国屋の二階座敷で、二十三夜の晩……客の所望によって一節切《ひとよぎり》の『吉野山』を吹いていますとね、お茶の通いをする小坊主が箱階子《はこばしご》をトントンと上って来る足音を聞いて、ああ油をこぼすよと言う途端、立てかけて置いた板戸がたおれて、小坊主は怪我をした上に、手に持っていた油差の油をこぼしてしまったという話。やがて笛を止めて一座が、この盲人の勘をためすために、二階の欄《てすり》のところから、いま大道を通る人は何者と尋ねてみると、盲人は足音の調子に耳傾けていたが、これは婆さんの手を一人の男が曳いて行く足音でございますが、男の方は何か気忙《きぜわ》しい心配があるらしい顔色、足どりの忙しさでよく分ります、してみると、多分、女の方は取上げ婆さんでございましょう……という返事、人をつけて見ると、手を曳いた男が言うことには、しきり[#「しきり」に傍点]が参りましたら、腰はわしでも抱きますが、とてものことに男を生んでくりゃあ有難い……と言ったので、大笑いして引返す。さてその次に通る者は……ははあ、これは二人だが足音は一人と盲人が言う、見れば下女が小娘を背負って行くのであった。さてその次に通るのは……これは鳥類だが自分の身を大事がる、なんという鳥か名は知れないが……と言う、見ると行人《ぎょうにん》が鳥足《とりあし》の高足駄を穿《は》いて行くのであった、という調子で、当らぬのは一つもない。そのうちに、初夜の鐘の鳴り渡る時分――下り舟に乗り遅れまいとして急ぐ旅人の姿が二階の灯にうつって見える、一人は刀脇差をさして黒い羽織に菅笠をかぶり、もう一人は挟箱《はさみばこ》に酒樽をつけて後につづく同行二人……あれはと盲人にたずねると、その盲人、前と同じく耳を傾けながら、同行二人連れでござるが一人は女、一人は男……と言う。ああ宵のうちから、こればっかりは見損ない……ではない勘違い、二人とも男で、しかも一人は大小まで差した侍衆じゃと一座から言われて、盲人が、そんなはずはありません、それはあなた方の見損ないではございませんかな……そこで、念のために人をやって右の二人の同行の後をつけさせてみると、大小差した男が樽を持った下男に向ってささやくには、夜船で、その樽をよく気をつけておいで、中のは酒ではない、みんなお金なんだよという声がまさしく女、よくよく聞いてみると、この侍と見たのは五条の『おたか米屋』であったそうな」
「そうしてみると、やっぱり眼あきはめくらに如《し》かず……塙検校《はなわけんぎょう》にからかわれるのもやむを得ない」
「事実、目で見るよりも勘で行く方が確かなのかも知れませんな」
「してみると、眼で見る奴の前では隠すことができるが、勘で来る奴には隠しだてはできないのだね、そういう奴が近所へ来た時には、何か勘避《かんよ》けの方法を講じておかんと、安心して生活はできない」
「それから、今のその西鶴の盲人|咄《ばなし》の最後の『おたか米屋』というのは、いったいどんな米屋なんですか」
「さあ――」
 それには、柳水宗匠も、ちょっと註釈に困ったようでしたが、
「とにかく、男まさりで、女手で切って廻す米屋の女あるじで、相当の評判者なることは確かだが、戸籍の謄本はここにありません」
「つまり、飛騨の高山の穀屋の、イヤなおばさんといったようなタイプだろう」
「は、は、は、まず、そんなものかね」
 ともかく、一座の散会がこの笑いに落ちることになりました。

         四

 弁信が、その輪講の席を辞したのは、講義半ばの時分であったか、その終りに近づいた頃であったか、但しはのっけに輪講の初端《しょっぱな》、品右衛門爺さんや久助さんが、好意的退席を勧告された時分に、一緒に身を引いたものか、そのことは誰も気のついたものはありませんでしたけれど、弁信が自分の部屋としてあてがわれた三階の源氏香の一間に来て、夜具の傍らにホッと息をついたのは、この夜も闌《たけな》わなるある時刻の後でありました。
 この源氏香の間というのが、偶然にも――実は偶然でもなんでもなく、竜之助が引籠《ひきこも》っていたその部屋で、お雪ちゃんもその次の座敷にいて、絶えず往来していたのです。そこが手つかず、あのままで人を泊めるにいいようになっていたから、少し遠いにも拘らず、皆の者が弁信にこの部屋をあてがったものです。
 あてがわれた弁信は、一議に及ばずその好意を受けてしまったが、遠くて不自由だろうと思いやりながら、ここへ弁信を導いて来た人が、かえって、弁信の物怖《ものお》じをしないのに舌を捲いたようなあんばいです。のみならず、普通の人よりもいっそう都合のよいことは、遠い廊下道や梯子段を、手燭《てしょく》も提灯《ちょうちん》もなくして平気で歩いて行けるから、座敷さえ教え込んでしまえば、抛《ほう》り出して置いて手数のかからないこと無類です。
 さきほど、たった一人で、長い廊下を伝って二重の段梯子を上り、間違いなく、この源氏香の間に辿《たど》り着いた弁信。
 夜具の前にちょこんと落着いて、そうしてお祈りをしました。
 それは、お祈りというべきものか、念仏というべきものか、或いは、かりそめに無念無想の境を作ろうとしているのか、とにもかくにも暫くの間、黙坐をしていた弁信は、やがて帯を解き、緇衣《しい》を解いて衣桁《いこう》にかけ、それからさぐりさぐりに、夜具に向って合掌した後に、軽やかに、その中にくるまって、左の脇を下にして横になり、その法然頭をくくり枕の上に落しました。
 そうして、彼は今、すやすやと思い入りの快眠に耽《ふけ》ろうとしているのです。弁信の言うところによると、今夜ここに寝通すのみならず、明日も、明後日も――少なくとも三日の間はわたくしを起さないで、寝かせて置いて下さい、湯水のお世話もなにも要りません、三日の間は死んだものと思召《おぼしめ》して、ぐっすりと休ませていただきます――というようなことを、さいぜんも言っていたから、これから有らん限りのものを忘れての眠り三昧《ざんまい》の境地に入ろうとしているその瞬間です、悪い奴が出て来ました。
「弁信さん、よくおいでなさいました、ほんとうに、お待ち申していましたよ、寒くはございませんか、さだめてお退屈だろうと思いまして、お伽《とぎ》にあがりましたよ、わたしですよ」
 弁信のためには必要ではないが、部屋の調度の均整のためには、ぜひなくてはならない、例の角行燈《かくあんどん》のほくち箱の中から出て来たものがあります。
「どなたですか」
「はい、わたしですよ、ピグミーでございますよ」
 ああ、ピグミーだ、こんな奴は出て来なくてもいいのである。誰しも出て来ない方を希望するのに拘らず、目の見えない人か、目は見えても眠っている人のところへは、必ずなれなれしく出て来る。
「ピグミーさんですか」
「はい、ピグミーでございます、いつぞやは失礼いたしました、今晩はあなたがまた、これへおいでなさることを知っておりましたから、ちょっと先廻りして、ほくち箱の中へと身を忍ばせてお待ち申しておりましたところです、お寒くもあり、おさびしくもあろうと存じまして、お伽にまいりました、今晩は夜っぴてお話をしようじゃありませんか、あなたもお喋《しゃべ》りがお好きでいらっしゃるが、わたくしだってその気になれば、ずいぶんお相手ができようというものです――今晩はゆっくり話しましょう、夜っぴてお話ししましょう」
「いけません、今晩は、わたしは休むのです」
「そんなことをおっしゃっちゃいけませんよ、ピグミーに恥をかかせるものじゃありません」
「今晩は
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