、遠眼鏡を知らないものは信用を置き過ぎて、江戸の築地の異人館の楼上で、アメリカやオロシャが見えるなんぞと言うが、そんなものではない」
「やはり、どちらを見ても海でございます」
先刻、磐城平に近い塩屋崎の方面だと海図で教えられた方向を眺めても、やっぱり山の形は見えないようです。見えるとすれば、この間を隔たる幾日かの前後に、田山白雲を※[#「彳+低のつくり」、第3水準1−84−31]徊《ていかい》顧望せしめた、勿来《なこそ》、平潟《ひらかた》のあたりの雲煙が見えなければならないはずだが、
「今までは、陸地でばっかり海を見ましたから、海の本当の姿がわかりませんでしたが、こうして海の真中にいて見ますと、海というものが、どのくらい広いものだか、幅も底も知れないということがわかります」
お松がこう言いながら、その無制限に広い海の姿を、遠眼鏡をとおして見ることの興味にいよいよ熱中している。そこで駒井は言いました、
「それは広い、日本内地でも武蔵野の真中に立つと、ちょっと茫々たる感じがして、古人も、月の入るべき山もなし、なんぞと歌いましたが、それでも武蔵野を一日歩けば、どこかの山へ突きあたりますよ。ところが海となると、二日や、三日や、一月や、半年、こうして歩いても突き当るところがないのです」
「海の広さは、陸地のおおよそ何倍ぐらいあるのでございます」
「それは三倍以上あります」
「それでは、この海いっぱいになって、海の洪水が出て来た時は、陸地がみんな沈んでしまいはしないでしょうか」
「いや、そんな心配はありません」
「でも、陸地の河という河は、みんな海に出るのではございませんか、それが世界中に雨が降りつづいた時なんぞは、いつ海がいっぱいになるかわかりません」
「いや、川は溢《あふ》れるということがあるが、海には溢れるということはないのです。水という水がみんな海へ集まるにしても、またこの広い海の表を、この太陽が絶えず照らして、水を蒸発させてしまいます。つまり、あの洗濯物を竿にかけて置くと、いつのまにか水気がなくなってしまいましょう、あの通り、この太陽の光が海の表から絶えず水を吸いあげていますから、決して海は溢れるということはありません」
「では、その吸い上げた海の水分はどうなりますか」
「それはまた雲となり、霧となり、雨となって、下に落ちて海へ戻って来ます。つまり、そういうふうにして循環しているから、海が溢れて、陸地が沈んでしまうなんていうことはない」
「よくしたものでございますねえ」
「今度は海ばかり見ないで、雲を少しごらんなさい」
駒井はお松に向って遠眼鏡を天上に向けることをすすめましたが、お松はそれに従わないで、
「あれ――舟が見えました、はじめて、あれは舟ではございますまいか」
「舟! どんな形をしています」
「たしか舟だろうと思いますが、見慣れた日本の舟の形をしています、黒船ではございません」
「どれ――」
駒井は、お松の手から遠眼鏡を受取って、
「なるほど、舟にはちがいない」
「ね、舟でございましょう」
「舟だ――お前の見た通り和船だ、漁師船だな、鰹《かつお》でも釣りに出たのだろう……あ、面白いぞ、面白いぞ、お松さんごらん、すてきなものが出て来ましたぞ」
「何でございますか」
「まあ、ごらん、いま見た舟よりずっと南の方を」
「南はどちらでございますか」
「右の手の方が南です、そら、あの辺をごらん」
と言って、再び駒井はお松に遠眼鏡を手渡しました。
指さされた方を一心に見ていたお松は、
「あ、黒船がまいりました」
「黒船ではないよ」
「いいえ、黒船でございます、間違いなく」
「船ではないのだ、あれが鯨というものだ」
「まあ、あれが鯨でございますか――大きな魚もあればあるものでございますねえ」
「鯨によっては身長百尺というのがあるそうだから、ちょうどこの船と同じぐらいのやつがあるはずです」
「奈良の大仏さまよりも大きいということを話に聞きましたけれども、生きたのをはじめて見ました。あれ、まだあとからも続いて参ります」
遠眼鏡は、もうお松の占有に帰して、いつ離されるかわからない時、
「サラ、ホイノホイノホイ」
不意に、一種異様なる鼻唄の聞え出したのは、例の茂太郎の出鱈目《でたらめ》ではなく、マドロス君がマドロス服で、おかしい節をつけながら、海の中から錘《おもり》をひきあげているのです。
数学の教授終り、茂太郎と社交ダンスの時間も切れ、今はこうして職業にいそしんでいるものらしい。
「おい、マドロス君!」
と駒井が声高く呼び立てると、けげんな面《かお》をしてこっちを眺めながら、錘をたぐり上げている。
「鯨が出たよ、ホエール、ホエール」
「ホエール」
マドロスは、故郷の友達でもやって来たような晴々しい面色になる。
「ハズカム、ホエール、ハズカム」
「鯨、鯨、鯨が出たってさ!」
いつしか茂太郎の人寄せ声が甲板でけたたましい。
六十四
と見れば百メートルのところに、思いもよらず押寄せていた抹香鯨《まっこうくじら》、それは十間以上十五間はあろうところの一団が、しおを吹いて南へ向って行くのです。
「ワン」
その声は茂太郎の声。思いがけないところから起ったので、見上げるとマストの中程に上っていました。
「ツー、スリー、フォーア、ファイヴ、シキス、セヴン、エイト、ナイン……」
ここでとぎれて、暫くして、
「みんなで九つであります、九頭の鯨が押寄せたのであります、素敵! 素敵! 田山先生に描かせたいものだなあ」
多分この計算は間違いないでしょう、高いところにいて、ことに物を見る目の敏《さと》い茂太郎の勘定ですから、報告にあやまりないものと見てよろしかろうと思います。
九頭の鯨が、悠々《ゆうゆう》として大洋を乗りきって行く壮観は、無名丸の船中を総出にして、手を拍《う》たせ、眼をすまさせました。
日本沿岸の太平洋も、この頃はまだ捕鯨船の圧迫が烈しくなかったから、海のすべてを警戒しながら海を渡るの必要はなく、たまたまここに現われた、ほぼ自分たちと同形の無名丸の一隻の如きは、ほとんど眼中になく、ために鯨と船とが舷々相摩《げんげんあいま》する形になって、南へそれて行くのがすばらしいものでした。もしこの船が鯨と同じ方向に、その中に挟まれて鯨の行く通りに遊弋《ゆうよく》することができたら、なお一層の愉快だと感ぜしめずにはおきません。
その時、またマストの上に声がある、
「皆さん、海の方ばかりごらんなさらずに陸の方もごらんなさい」
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ああ、七兵衛おやじが
かけるわ、かけるわ!
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茂太郎が叫び立てるから下で、
「茂ちゃん、見えもしないくせに、人を驚かせちゃいけませんよ」
「でも……」
茂太郎は頓着なしに、仰々しく叫び立てています。
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七兵衛おやじが
かけるわ、かけるわ
矢のようにかけて
勿来《なこそ》の関を通りぬけた
おやじはどこへ行くつもりで
あんなに道を急いでいるのか
それは言わずと知れた
陸前の石巻へ向けて
この無名丸と
かけっこをしようというのです
つまり、無名丸が先に
陸前の石巻に着くか
七兵衛おやじが先に
同じところへ着いて待ってるか
その二つのうちの
いずれかの一つなのだ
だが、船には
天候というものがある
それからまた
七兵衛おやじは七兵衛おやじで
田山先生を見つけなければならぬ義務がある
七兵衛おやじは
どうかして田山先生を
見つけ出して
一緒に石巻へ
連れて行ってあげたいと思います
だけれども
田山先生のあとを追うのは
白雲を掴むようなものですから
首尾よく見つけ出したらお慰み……
ヒュー
[#ここで字下げ終わり]
ここまで歌い来《きた》った茂太郎が、急に歌をやめて、ヒューと口笛を一つ鳴らしました。
いつか茂太郎の手に、一つの海鳥が抱かれていました。
「マドロスさん、こりゃ何だい、この鳥は何だか知っているかい、アルバトロスの雛《ひな》じゃあるまいね」
「海猫《うみねこ》!」
と高く叫んだのは、マドロスの声ではありませんでした。
六十五
駒井甚三郎は今、お松に於て、最もよき秘書を兼ねての助手を得ました。
その前後から、お松は船長附専務のようになって、絶えず駒井のために働き、また同時に自分を教育することになったのは、どちらにとっても幸いです。
この子は、お君女のように感傷に落ちるところがなく、兵部の娘のようにだらしのない空想家とも違い、聡明であって、そうして教養があって、理解が深くて、同情心にも富んでいるという得易《えやす》からぬ徳を備えておりました。
海を走りながら、海についての知識だけではなく、駒井は折にふれての見聞と感想とを、或る時は断片的に、或る時はまた論述的に、お松を相手に説いて聞かせるのであります。
お松にとっては、それを聞くことが、何物よりも自分を教育することになると共に、駒井甚三郎その人の理想と人格とを理解するに最もよき機会でありました。
お松は駒井能登守の時代から、この人を尊敬すべき人格者とは信じていたけれども、その内容の価値に至っては審《つまびら》かにせず、ただ、品位あるが故に、地位高きがために、態度高尚なるが故に、人に対して親切であるが故に、感化せられていたようなものでしたけれども、ここに至って、駒井その人の遠大なる理想と、豊富なる学識というものに接してみると、また異った尊敬をこの人の上に置かねばならないし、同時に自分というものの世界もまた、曾《かつ》てなかった眼界を開かれて行くということを感ぜずにはおられません。
船長室には種々の掛図や機具があるほかに、最も大きなる世界の地図が掲げてあります。
話題のついでにはいつもこの世界地図が有力なくさびを成さないということはありません。
今も駒井はこの地図に就いて、お松に向ってこんなことを話しているのです、
「年々人は殖《ふ》えてゆきます、陸地は少しも殖えません、今はまだ世界に空地がいくらもありますけれど、人間の殖える勢いはすばらしいものだから、いつか土地の争いが起るにきまっている、国と国との争いというものも、つまりはそこから起るのです。我々はどうかして戦争のない国へ行きたい、いや、どうかして戦争のない国を作りたいものです」
「本当でございます、相助けて行かなければならないはずの人間が、殺し合うなんてどう考えてもいいことではありません」
「いい事ではないが、弱くしていると国をとられてしまうから、勢い強くならなければならん、それがために、国はいつも戦争の準備をしていなければならないのです。今、日本が乱れかかっているのも、やはり、外国のために取られはしないか、取られてはならない、という心配が基なのです」
「外国というものは、みんなそう人の国ばかり取りたがるものでございましょうかねえ」
「いや、外国人だとて、好んで人の国を取りたがるわけではなかろうが、未開の国を通って歩いて、それを開いて自分のものにしようとするのは人情の自然ですからね。すると土着の人がそれを好まないで、敵対の色を現わすのも人情だから、そこで、戦争とか、侵略とかいうものが始まるのです。日本も今、その手にかかろうとしているが、日本は日本として決して野蛮国でも、未開国でもない、ただ暫く国として眠っていたばかりなのですから、そうやすやすと外国人の手には乗りません」
「日本が取られてしまうようなことはございますまいね」
「そんなことはない、日本は二千五百年来鍛えられている国だから、取られるようなことはないが、しかし無用の争いはしたくないものだ、無用の争いをする暇を以て、新天地を開拓することにしたいものだ、世界は狭いとはいえ、まだまだ至るところに沃野《よくや》が待っている」
「けれども、殿様、このお船だけで知らぬ外国へ行けば、かえってわたしたちが、その土地の人に殺されてしまうようなことはございますまいか」
「それはね、我々が大砲をのせたり、軍艦に乗った
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