限りの青海原《あおうなばら》で、他の船の帆の影さえ一つも見えない。見えるものは、空と、雲と、水と、それから空を飛ぶ信天翁《あほうどり》と、鴎《かもめ》だけのものです。
 しかし、天気は穏かで、海は静かなものなのです。静かだといっても、時々ローリングというやつがやって来て、慣れない船客の足を悩ますことはあるが、それもその心得でさえあれば何のことはないのです。
 今、無名丸の――まだこの船には名がついていないから、これは駒井甚三郎が、田山白雲に諮《はか》って適当な名乗りを選択してもらうはずでしたが、白雲を待ちきれないうちに船が出てしまったものだから、当分は無名丸――で置くことにしました。この無名丸のメーンマストの下には、柱を囲んで幾人かの人が嬉々として語り合っているのを見ます。
 それを数えてみると、お松がいる、金椎《キンツイ》がいる、乳母が登を抱いている、茂太郎がここでも般若《はんにゃ》の面を放さないでいる、それとマストの前にはマドロス君が頑張っている。マドロス君の頭の上には三尺に四尺ぐらいの黒板が吊されてある。
 その背後にはムク犬がうずくまっている。
 まず、メーンマストの下を囲んだのは、これだけの面《かお》ぶれのようです。駒井甚三郎がいないのは、これは船長としての職務もあり、職務以外の研究もあるし、そのほか、機関方、船大工連もここには見えないのは、それぞれ手放せない仕事の方面を持っているから当然のことではあるけれども、兵部の娘がいないことは、物足りないようです――でも、それも船酔いで引籠《ひきこも》っているのだと聞いてみれば、さのみ心配はなく、とにかく、これだけが打揃ってメーンマストを囲んだというよりは、そのメーンマストにはマドロス氏が寄りかかって、頭上に黒板を吊しているのだから、マドロス君を囲んでこれらの同勢が、何か問題を授かりつつあるようにも見えます。
 事実もまたそうなのです――マドロス君は今これらの連中を前にして、学問を授けているところでありました。学問を授けるといっても、このウスノロ氏は、そう大して人の師たるに足る教養があるというわけではないことは分っていますが、マドロスがマドロスであるだけまた、前に控えた連中が、いずれも女子供としての、海の初心者であるということによって、マドロス氏に教えを乞うべきものが多々あるのはやむを得ません。
 マドロス君は今、頭上の黒板に、絵とも字ともつかない妙なものを書きました。
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 これだけの文字を横の方から持って行って白墨で書いて、
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ワン
ツー
スリー
フォーア
ファイヴ
シキス
セヴン
エイト
ナイン
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 それを擂粉木《すりこぎ》のような棒で、いちいちコツコツと叩きながら一通り読み立て、
「サア、茂ツァン、読ンデミナサイ」
と言って1を指すと、茂太郎は勢いよく、
「棒!」
と大声で言いました。
「棒デアリマセン、ワンデス」
「犬も歩けば棒に当るから、ワンも棒も同じことです」
「茂ツァン、マジメニナルヨロシイ。次ニコレハ?」
 マドロス君が今度は8を指すと、茂太郎は、
「瓢箪《ひようたん》!」
「イケマセン、瓢箪チガウ、エイト、日本ノ八デス。コレハ」
 マドロスがその次に6を指すと、茂太郎は、
「鼻!」
「マタ違イマス、鼻イケマセン、シキス、日本ノ六ノ字デス。サア、皆サン、イッショニ読ミマショウ」
 かくて、マドロスの音頭で、お松も、乳母も、茂太郎も、金椎だけは別、ワン、ツー、スリー、フォーア、ファイヴ、シキス、セヴン、エイト、ナイン――
 幾度も繰返して、
「コレガ日本ノ数字、一、二、三、四、五、六、七、八、九デス、ヨク覚エナサイ」

「先生! 十がありません」
 茂太郎が叫ぶ。
「十ハコノ次デス、アシタカラデス」
「今日教えて下さい、そうしないと数が合わなくていけません」
「デハ、教エテ上ゲルヨロシイ」
といって、マドロスは黒板の上に、
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10[#「10」は縦中横]
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を書いて、
「テン」
「テン――十はテンですか、棒と球ですね」
 茂太郎の首には小さな石盤があります。般若《はんにゃ》の面を頭の上へあげると共に、その石盤を胸におろして、黒板の文字をうつしとりながら、
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棒だと思えば一
棒に当ればワン
の一と書けば二
二はツー、ツー、ツー
るの字の頭をちょっと曲げると三
三はスリ
巾着切り、かっぱらい
挟箱《はさみばこ》だと思うと違います
4は四の字でございます
フォーア、フォーア、フォーア
ふかしたてのお饅頭《まんじゅう》、フォア、フォア、フォア
五の字は人の面《かお》
6は鼻です
7は鍵
8は瓢箪《ひょうたん》ポックリコ
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 茂太郎はこんな出鱈目《でたらめ》の下に、文字を書き且つ習いつつあったが、
「さあ、皆さんがよく御勉強をなさいましたから、今日はこれでお休みの時間にして上げます、お休みの時間には、わたくしが踊りをおどってごらんに入れます」
 先生を圧迫して、自分が放課を宣告し、右の手を差す手、引く手にして足踏みおかしくはじめると、乳母の膝なる登が笑いました。
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登様が笑いました
登様が笑いました
登様が御機嫌よく笑いました
わたしの踊りを見て笑いました
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 茂太郎はこう言って、今度は頭の上にのせておいた般若の面を顔へおろして、登の前へ出す。登がイヤイヤと言って泣き出しそうになる。
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ああ、登様が泣きます
泣きます――
ではよしましょう
別のを踊りましょう
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と口拍子で言いながら、般若の面を小脇に抱え直し、
「マドロスさん、ハーモニカを吹いて下さい、わたしが踊ります、でなければフリュートをつき合って下さい、越後獅子を踊りましょうか、さあ皆さん、越後獅子を踊りますよ」
 ウスノロのマドロス君は、茂太郎に引廻されて、訓導の任をおっぽり出して、越後獅子を吹かせられることになり、甲板の前は大陽気です。
 茂太郎独特の越後獅子と、怪しげなマドロス君の吹奏が終ると、今度は先生が一倍嬉しくなってしまい、笛をおっぽり出して、茂太郎の手をとり、ダンスをはじめてしまいました。
 見物は大よろこびです。
 お松も笑いながら見ていましたが、いいかげんにして、ひとり船首の方へ歩いて行きましたが、横振りを手すりにつかまって避けながら、いい気持で海を眺めながら、デッキを渡って来て見ると、そこに船長室が見えて、駒井が熱心に何か仕事をしているのが見られます。

         六十二

 船長室のデスクの上で、駒井甚三郎が一心に見つめているのは海図であるらしい。
 駒井は海図を見つめた目をはなして、海を眺めようとして、その近いところに人の彳《たたず》むのを見ました。その人はここまで来たけれども、駒井の熱心な研究ぶりに遠慮をして彳んでいたもののようです。そこで、駒井が窓を開いて言葉をかけました、
「お松さん、お入りなさい」
「お邪魔にはなりませんか」
「かまいません」
「でも、毎日、天気がよろしくて何よりでございます」
「全くそれが何よりです、この分では、目的地の石巻へ遅くも三日の後には着きます」
「左様でございますか、今はどの辺の海にいるのでございましょうね」
 この時は、お松はもう船長室に入っていて、デスクの右の方の椅子へ腰をかけしめられていたのです。
「この図面をごらんなさい」
 駒井は自分が今まで熱心に見ていた海図であろうところのものを、お松の前にさしつけました。
 駒井は自分の研究事項に対しては、その人をさえ得れば非常に親切な開放心を持っていて、素人《しろうと》に向っても諄々《じゅんじゅん》として説くことを厭《いと》わない気風を持っている。そこで、お松の前に海図がつきつけられたけれど、ただそれだけでは、当人が当惑しているのを見てとって、言葉を添えました、
「これは海図といって、海の道を写したものです。陸地には地図とか、絵図とかいうものがありましょう、それと同じことに、海にも海図というものがあって、航海者のたよりとなっているのです。ごらんなさい……こっちが陸で、こっちが海です。そうして我々のこの船は今、海の中の、ちょうどこの辺のところを走っているのです」
 駒井は指で、海図の上のある一端を指摘しました。
「左様でございますか」
 指差されたところを注視したけれど、お松としては、やはり茫洋《ぼうよう》たる海の中に置かれたと同様な心持で、さっぱり観念を得ることができないから、
「こんなに陸に近いのでございますか。それでも、ここにいますと、どちらを見ても陸地は少しも見えないではございませんか」
「全くその通りです、地図で見れば、ちょうどこの船のあるところは、磐城平《いわきだいら》に近い塩屋崎というところの沖に当りますが、ここにいては東西南北みんな海で陸地は見えません、またなるべく陸地の見えないようにと船をやっているのです。もっと近く陸地の見えるところを通れば通れるのですが、わざと見えないように船をやっているというわけはわかりますか。それは第一この船長が航海に慣れないのと、陸地からなるべく船の形を認められないようにとの用心のためなのですよ」
 駒井は噛《か》んで含めるように説明はするのだが、お松には、その親切はわかっても、意味はよく呑込めないのです。
「それでも、なるべく陸地に近いところをお通りなさる方が安心ではございませんか、万一の時にも――」
「それは、やはり素人《しろうと》考えなのです、船は沖にいるほど安心で、陸へ近づくほどあぶないものです。素人は陸地が見えさえすればやれ安心と思い、少々は無理をしても早く港入りをしたいように焦《あせ》るけれども、実はそれが最もあぶないのです。海路の案内を充分に心得た人なら、陸に近いところを通ってもいいが、我々のような駈出しの船長はなるべく陸に遠いところを通っているのが無事なのです。ですから、こうして毎日陸の見えないところばかりを通っていますが、それでもいま言った鹿島、磐城の海岸からさして遠くはないのです。それともう一つの理由はね、普通の和船ならばとにかく――この船は少し洋風の形が変っていますから、陸上で見咎《みとが》められると困ることがあります。あちらの常陸《ひたち》は水戸家の領で、あの辺では、外国船と見ると一も二もなく打ちはらってしまえということになっている、水戸に限ったことはない、異形《いぎょう》の船が通ると見れば、どこの藩でも注意していて、手に合わないと見れば、伝馬で駅次に報告するからあぶない。よって我々はこの船を、それらの人の注意をそらすためにも、わざわざ遠くを走らせているのです」
 小骨を抜いてお肴《さかな》を食べさせるような説明ぶりですから、お松もなるほどと感じ入っていると、駒井がつづいて、
「ですが、これが仙台領へ入ると安心なわけがあります。石巻の木野という人が、仙台の船を預かっていて、あれは、わたしと同学だから、仙台領へ行くまでに故障を起しさえしなければ占めたものです、この分なら、申し分なく目的を遂げられることと思う」
 こう言って、駒井は片手を伸ばして、座右にあった遠眼鏡を取りあげ、
「これでひとつ見てごらんなさい、雲だと見えるところに陸があるかも知れません、あの鳥は知っていましょう、茂太郎がお馴染《なじみ》のアルバトロスというやつです」
と、お松の前にその遠眼鏡をつきつけました。

         六十三

「大へん近く見えますこと、あのアルバトロスなんぞも……それにしても、どこもかしこもみんな海でございます、海というものはこうも広いものでございましょうか」
「それは広いですとも、世界の陸地をみんな合わせても、海の広さに遥かに及ばない」
「全く見とおしがつきません、遠眼鏡で見てさえこれなんでございますもの」
「どうして
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