なんにしてもこの鈴の音はいいな、何といういい音をさせる奴だろう。
 咽喉の渇きを癒《いや》すことの代りに、耳の響によってうるおされた竜之助。その音に吸い入れられると共に、その物の影から目をはなすことではありません。
 あ、坊主だ!
 全く、命知らずの冒険とより見るほかはありません。あの清らかな鈴の音をさせつつ、あの懸崖絶壁を、ひとり、すがりつまろびつ下りて来る。その人は法師の姿であること紛れもなく、しかも、その法師の姿も人並よりはどう見てもずっと小ぶりな、痛々しい姿のものが、前に案内の者もなく、後ろに護衛のとももなく、一歩をあやまらば、この眼前にある骨灰の中へ、更に微塵《みじん》を加えて落ち込むことがわかっているところへ、徐々として下りて来ることが明らかになりました。
 竜之助は、自分の咽喉の焼けるのを忘れて、その小法師の大胆と、無智と、それより来《きた》る危険のほどを思わずにはおられません。

         五十九

 断崖絶壁から下りて来るところの小坊主の姿は、蟻のように、雪渓まで伝わって来たが、それから勾配の道をたどたどとこちらへ向いて来るのがよくわかります。清冷なる鈴の音は、いよいよ近く耳朶《じだ》について来る、心地のよいこと。
 やがて、はっきりとその姿も見られるようになる。あの高いところからでは、いかに下りでも優に一里程と見ていたのに、急ぐとはなしに、もう眼前近くその姿が見られるところまで来ていた。
 骨灰の中に、ズブズブと踝《くるぶし》まで隠してやって来る小坊主の腰で、その鈴が鳴りつづけているのです。手にはやっぱり金剛杖をついていて、背中から頭高《かしらだか》に背負いなしたものの、最初はそれを琵琶かと思いましたが、琵琶ではなくて、小法師の身にふさわしからぬ大きさを持った銀の一つの壺であります。
 竜之助と、つい雪渓一つを隔てた直前まで下り立った小坊主は、
「こんにちは……」
と言って、向うから先に言葉をかけたものですから、
「はーい」
 小法師は、谷間をまっしぐらにかけ下りて来ましたが、それを上から見ると、背中に背負った、身に応じない銀の壺に押しつぶされてでもいるようでしたが、忽《たちま》ちかけ上って竜之助の眼前に立ち上りました。
「ここに、どなたかおいでなさると思って来てみましたら、案の定……」
「わしの方でも、あの高いところから蟻のように下りて来るお前さんの姿を見つづけていましたよ」
「なかなか危ない道でございましたが、それでも御方便に、無事にこれへたどりついてまいりました」
「まあ、お休みなさい」
 竜之助も、自分の身に引比べてそれを労《いたわ》らずにはおられません。
「はい、有難うございます」
 二人は、ここで岩をはさんで相対座しましたが、小坊主がまず小首をかたげて、
「あなた様は、どちらからおいでになりましたか、どうも、あなた様を、わたくしはどちらかでお見受け申したことがあるように思われてなりません」
「そう言えば、わしもな、お前さんの声をどこかで聞いたようだ」
 二人はこう言って、また面《かお》を見合わせました。小坊主の眼もぱっちりと開いているし、竜之助の切れの長い眼も、よく冴《さ》えて見える。そのくせ、二人はどうも思いうちにあって、外に思い出せないらしい。
「たしかに、どこかでお目にかかりましたに相違ございません」
「わしもそう思うのだ」
「或いは前世でございましたかしら」
「そうさなあ……」
 竜之助は少しく勘考しました。
「わかりません」
「わからないな」
「わたしは、清澄山の弁信でございますが……」
「弁信?」
「おわかりになりませんか」
「そうさ、聞いたこともあるようだが、なんだか遠い昔のような気がする」
「生れないさきのような心持は致しませんか」
「左様、そんな気もしないではないが……」
「おたがい同士、まだ生れないさきのお友達であったのではないでしょうか」
「そうして、お前さんはいったい、こんなところへ何しに来たのだね」
 竜之助が尋ねると、弁信と呼ばれた小法師は、
「はい、血の池を見にまいりましたが、血の池はいったい、どちらにございます」
「血の池――血の池というのはついそこの、それがそうだ」
 竜之助が崖下のところを見せると、伸び上った弁信が、
「あ、あれでございますか、なるほど、まあ、何という鮮やかな色でしょう」
 竜之助が最初見た時と、今とはまた違いました。赤い色としては違わないけれども、以前は猩血のようなのが、今は緋縮緬《ひぢりめん》のように、臙脂《えんじ》のように、目のさめるほどあざやかな色をしていました。
「でんぶ」
「でんぶ」
「でんぶ」
「でんぶ」
 またしても、いやらしい波の音(?)が起ってまいりました。
 弁信法師は、またたきもせず血の池を見入っていたが、竜之助は、
「お前さんは血の池を見に来たようだが、わたしは一杯の清水が欲しい」
「それは、お安いことです」
 弁信は背中につけていた銀壺を卸して竜之助の前に置き、
「さあ召上れ、このまま口づけに召上れ――杯《さかずき》も、柄杓《ひしゃく》もござりませぬ」
「では、遠慮なく……」
 竜之助は、その銀壺を取って飲みはじめました。
「あ、腸《はらわた》にしみる、いい心持だ――何といういい心持だろう、この味は……」
「あの山の頂に、金剛水がございましたから、それを汲んで参りましたのです」
「みんな飲んでしまってもいいかね」
「よろしうございますとも、いくらお飲みになっても飲み尽すという心配はございませぬ」
「でも、みんな飲んでしまっては、お前さんがまた困るだろう」
「いいえ……」
と言いながらも、弁信は、漫々たる血の池の面ばかりを見つめています。
 竜之助は、諒解《りょうかい》を得た意味にとって、その銀壺の水を傾け尽そうとして、早くも満腹になりました。
「まだ、ある」
 さしも貪《むさぼ》り飲んだ銀壺の水が、まだ若干を余している。
 弁信は、せっかくの金剛水を、みんな飲まれてしまうことには頓着なしに、漫々たる緋縮緬の池の面ばかりを見つめている。
「でんぶ」
「でんぶ」
「でんぶ」
「でんぶ」
 そうら、また白い搗《つ》きたての、べっとりしたお供餅のような一対ずつが、無数に現われ出して来たぞ。
「いったい、君は、血の池を見るために、わざわざあの雪峯を越えて来たのかね」
 焼けつく咽喉を全く癒《いや》しつくされた竜之助は、弁信の注視するところに向って、自分の念頭を置くようになると、
「はい、わざわざ血の池を見物に参ったのではございません、実は少々尋ねる人がございまして、もしや、この池の中に……と思ったものでございますから、それを探しにまいったようなわけでございます」
 弁信が答えますと、竜之助がそれについて、
「そうですか、誰です、そのたずねる人というのは――」
「お雪ちゃんです。もし、あの子がこの池へ落ちていやしないかと思いましてね」
「お雪ちゃん?」
「え、万々そんなことはないとは思っておりますが、それでも、あちらの道が修羅《しゅら》の巷《ちまた》で通りにくうございますから、道をまげてこちらへまいる途中でございます。もしや、お雪ちゃんらしい人を、この池の中でお見かけにはなりませんでしたか」
「君はいったい、お雪ちゃんという子を、どうして知っているのだ」
「よく知っています。あちらの修羅の巷では戦《いくさ》がはじまって、男同士が殺し合っております、おそらくあのままで置きましたら、この地上に男の種が絶えてしまうのではないかと疑われます。それにひきかえて、この池は女ばかりでございます。男はみんなああして戦って死にます、女はこうして、身投げをするのですね。ごらんなさい、あの肉体はみんな、この池へ身を投げた女人たちでございます。もしやお雪ちゃんも、そのなかの一人となっているのではないかと、そんなような気がしましたものですから……」

         六十

 その時、どちらがどうしたはずみか、中に置いた銀壺を覆《くつがえ》して、その水を地上にぶちまけてしまいました。
「あっ!」
 竜之助が、驚いてそれを引起そうとすると、弁信が、
「いいえ、かまいません」
 弁信にとっては与えるほどの水だが、竜之助にとっては、その一滴も救生の水でありましたから、さすがこの人も勿体《もったい》ないと感じたのでしょう。
「惜しい、惜しい、この水一滴あれば、人一人の命が助かるのだ」
 竜之助は倒れた壺を引起しながら、こう言うと、弁信が、
「全く水は貴いものでございます、人は食物が無くても一カ月余りも死なないでおりますが、三十六時間、水がなければ、斃《たお》れてしまいます」
「その通り――惜しいことをした、この水……」
「いいえ」
 一方がしきりに惜しがるを、一方は事もなげにしている。
「ああ、この水のあとが青くなった」
 竜之助は眼をすまして地上を見ました。いま銀の壺をひっくり返した水の流れのあとだけが骨灰の間に青くなっている。草だ、その部分だけ草が青々と生えているのだ。
 弁信は池を見ながらこう言いました、
「困ったものでございますね、あちらの谷ではいま申します通り、修羅の巷《ちまた》で人々が無制限に殺し合っているのでございますよ。その争いのもとはよくわかりませんが、なんに致せ、この世に人命ほど貴いものはないのでございます、いかなる大事も、人間の生命に価するほどの大事はなかろうはずでございますのに、ああして千万の人間の生命を犠牲にして、無制限な戦いをしておいでなさる。それからまた、こちらの谷では、道を得さえすれば、霧のように晴れてゆくはずの迷いが悟りきれないで、われと我が身をこの血の池に投げて、あたらの身を亡ぼしてしまうのでございます。ほんとうに困ったものではございませんか」
「左様――」
「みんな一つの増上慢心から起るのでございます――すべての罪のうちの罪、悪のうちの悪の源は、増上慢心でございます。この世に戦いより男子を救い、罪の淵から女人をなくするためには、何を措《お》いてもまず、この目に見えぬ一切の悪の源である増上慢心を亡ぼさなければなりません――三千人の人を殺すより、一点の増上慢心の芽ばえが悪いのでございます。あの修羅の巷の人と人との殺し合いも、この底知れない血の池の深さも、もとはといえば、その隣りの人に示す人間の誇りが、芽ばえでないということはございません。一人に誇る優越が、万人の羨《うらや》みとなり、嫉《ねた》みとなる時に、早や千業万悪の種が蒔《ま》かれたのでございます」
「いったい、人間が多過ぎるのだ」
 竜之助がやや荒っぽく言いました。
 その時またもや、山の峡《かい》と、山脚とから、
「でんぶ」
「でんぶ」
「でんぶ」
「でんぶ」
 波の音だけが起りはじめました。
 途端に、弁信も、竜之助も、あっ! と言って湖面を見たのは、千尋《せんじん》の断崖の一方から、今しこの湖水をめがけて、ざんぶと飛び込んだ者があります。
 申すまでもなくそれは女で、あざやかな帯と着物だけが空中に舞い、肉体は血の池深く落ち込んで、漣※[#「さんずい+猗」、第3水準1−87−6]《さざなみ》をただよわせると見れば、竜之助の夢もそれで破れました。
 すべてが消えて、人里で鶏の啼《な》く音がする、と思うと、竜之助は自分の唇に焼けつくような熱を感じ、夢に見たすべては消えたのに、血の池に浮ぶ生温かいお供餅が、海月《くらげ》のようになってこの室に迷い込み、臼《うす》の如く我を圧迫するのを感じ、
「人間が多過ぎるのだ」
 いくら殺しても、斬って捨てても、あとからあとから生きうごめいて来る人間に対する憎悪心が、潮のようにこみ上げて来るのを押えることができません。

         六十一

 駒井甚三郎の無名丸《むめいまる》が今、北緯――度、東経――度あたりの海を北へ向って走っている。
 日本内地の地点からいえば、それは鹿島洋《かしまなだ》を去る遠からず、近からぬところあたりであろうと思われるが、この船の上では、陸地はいずれの眼界にも見られない。見渡す
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