わせておかみさんを拝んでいる。
若い衆が桐油を取りに行ったその隙を見て、おかみさんは駕籠の隙間から、一枚の切手を投げ込みました。
若い衆の持って来た桐油には杏葉牡丹《ぎょうようぼたん》かなにかがついている。これは本願寺御坊専用の品か知ら……飛騨の国に於ての門徒の勢力がこの桐油だけで、道中の安全を保証する便りは充分あるのだと思わせられる。
かくしてこの夕べを二つの駕籠は、一切の雨ごしらえで、ゆっくりと出立し、途中になって急馬力で走り出しました。
あとに残った、心利いた黒川屋のおかみさんの取りしきりぶりに見ると、久々野からここまで駕籠をつけさせた、例の仏頂寺、丸山が徴発して来たところの四人の者には、充分の鼻薬と口止めが利いているのに相違なく、これから送り行く六人の者は、みな黒川屋譜代恩顧の者共だから、万一の際にも、口の割れる気づかいはないはず。
五十六
委細も聞きもせず、言われもしないのに、のみ込んで背負い切り、こうして駕籠を送り出して後、また帳場に坐ったおかみさんは、何といっても、いやまして行く不審に相当の思いわずらいをしないわけにはゆきません。
ああして、あの人が、ああ折入って頼んだのは、よくよくのことに相違ないが、自分として、ああまで言われてみれば、全く退引《のっぴき》はできないではないか。
それは、こうした商売上、お蘭さんの手を通じて、お代官所でもずいぶん好意ある取扱いを受けていたのである。どうしても取引上の必要、官の要路者の意を得ておかなければならないものがあるので、なにも特別に悪く取入るという次第ではないが、商売上ぜひもないことで、旧友のお蘭さんと腐れ合っているわけでもなんでもないが、昔馴染《むかしなじみ》の友誼上、おたがいに相当の便宜もはかり、利用もしあっている。
もとよりここのおかみさんは、お蘭の身の上風聞についてずいぶん耳に入れていることはあるが、それはなにも自分がかかわったことではなし、このおかみさんは決してお蘭のような聞苦しい評判を立てられる人ではないが、やっぱり生立ちからの友達は友達――そんな評判には触れずに、いつもよくつき合っていたので、そこには人柄は別でも、どこか気の合ったところがあると見なければならぬ。それが、今、ああして頼まれてみれば、突き放すわけにはゆかないのは分りきっている。
それにしても内容のほどはてんでわからないが、人殺しの巻添えということだけは聞かされた。なるほど、評判に聞く通りの身持だとすれば、お蘭さんにも何かことが出来なければいいがと心配をしないではなかった。何か色恋から飛ばっちりを受けてあんなになってしまったに違いない。ああして一時他領へ逃げることだけで外《そ》らせればいいが、何しろお代官様が背後にいらっしゃるから、そのうち何とか取計らいがつくに相違ない――お蘭さんもいったい世間の評判通り、このごろはおごってきなすったせいだろう、少しはおつつしみなさらなければいけない。
おかみさんは、どこまでも好意に解して、幼ななじみの友につつがなかれかしと心に念じながらも、出入りの人の口《くち》の端《は》をしきりに気にとめて見ました。
それは、そのうちきっと、店へ入りこむ者のうちから、高山方面の変事が報告されるに相違ないことを期待しているからです。でも、その夜は何事もありませんでしたが、いよいよ店の戸を締めようとする時に、お触れが廻ってしまいました。
それは、この際、他国者であったり、また土地の者にしても他国へ出ようとする者は、一切通行差止めをするように、との高山代官所からのお達しでしたから、さてはとおかみさんの胸を打ちました。
その翌朝になると、未明から集まる者がこの噂《うわさ》でもちきりです。
それを帳場に坐ったおかみさんが、いちいち聞漏さじと注意していると、要するにこんなことです――
高山の御城下では、いま農兵が謀叛《むほん》を起して、代官所を襲わんとしたと言い、もう焼打ちをかけたとも言い、お代官が殺されようとしたとも言い、すでに殺されて首になってしまったとも言うのです。
それでは、そのほとばしりで、お蘭さんが逃げ出したのだ。なんでも高山では、新お代官の圧制から暴動が起りそうだ起りそうだということは、かねて聞いていたが、ではいよいよそれが起ってしまいましたかね。
愚図愚図していればお蘭さんも目のかたきにされて、殺されてしまっていたに相違ないが、あの人のことだから、素早く抜け出して来たのはまあよかった。
おかみさんはこうも胸を撫でおろしてみたが、そのうちにも、店へ入代り立代る人の噂がみんな別々です。
農兵の暴動ではない、盗賊がお代官屋敷へ忍び込んで、お代官の大事なものを盗んで逃げてしまって、まだつかまらないのだ、と言うものがあるかと思えば、いや盗賊ではない、浪人者がお代官屋敷へ乱入して、お代官を斬ったとか、傷つけたとかいうことを伝えて来るものもある。
皆それぞれ風聞を聞き伝えて来たのだが、僅か六七里の間に、いろいろ想像や捏造《ねつぞう》が加わっているらしいのを、いずれも見て来たように伝えるものだから、おかみさんも迷わざるを得ません。
その本当の要領こそ掴《つか》めなかったが、事件の中心が代官お陣屋にあることだけは疑いがない。疑いがないどころではない、現に自分はその本元から逃げて来た人を保護してやっていた――おかみさんは、いっそ人を高山までやって実地を調べさせようと思ったが、そうまでするのも、なんだか不安を見せるようで心もとないと考えているうちに、また容易ならぬ二つの風聞を店頭へ持ち込むものがありました。
その一つは、高い声では言われないが、実は高山のお代官は殺されて、しかもその首を中橋の真中まで持って来て曝《さら》されたことは、見たものが多いから隠そうとするほど隠れないことになっている――そうして、お代官を殺したのは農兵の暴動でもなければ、浪人者の乱入でもない、実に予想外の人に疑いがかかればかかるもので、その犯人は、このごろお代官の寵《ちょう》を専らにしている愛妾のお蘭の方が情人を手引して殺させ、一緒に北国の方へ逃げてしまったのだ!
それを聞いて、さしもの気丈なおかみさんが、座に堪えないほどになっていると、つづいてまたそれを打消す有力なる一説が伝えられて来ました。
それによると、お代官の殺されたことは本当である、お陣屋ではあらゆる手段を尽して、討たれたのはお代官ではないということを言うているけれども、事実上、その首が曝されているのを見た者が一人や二人ではないのだから、人の口は塞げても、その心持はどうすることもできない。
もうお代官の殺されないということ、あれは別人だというような揉消し宣伝は誰も一人も信ずる者はないけれども、その何者によって殺されたということだけは、今までかいくれわからず、徒《いたず》らに臆測と流言蜚語《りゅうげんひご》が伝わって、あれだ、これだと影のみ徒らに大きくなったが、今朝に至ってそれが全くわかりました。お代官殺しの下手人がすっかりわかって、それが捕まりましたからまず一安心です。
それを聞いておかみさんが、どうしても帳場から乗出さないわけにはゆきませんでした。
「お代官様が殺されたとは、本当ですか。そうして下手人が捕まった? それも本当ですか。いったいそれは何者なの?」
「それは、おかみさん、今朝になって、捕まってしまいました、浪人者でございます、なんでも越中の者で、仏頂寺弥助という浪人と、それからもう一人、丸山なんとかというその連れの書生と、二人だそうでございます」
「その二人っきりですか」
「へえ、その二人で、お代官をやったのだそうでございます、丸山の方はさほどではありませんが、仏頂寺というのは、トテモ腕の利《き》いた浪人者だそうでございますよ」
「そのほかには仲間はないのですか」
「え、え、そのほかにはございませんそうでございます」
おかみさんはそれを聞いて、熱湯を呑んでいるような胸をやっと撫でおろしました。
いずれにしても、この下手人とか、犯人とか、嫌疑者とかいうものに、お蘭の名が加わっていないのがよろしい。ことに高山でつかまって浪人者だということになってみれば、火元は少し遠いようだ――でも、
「確かに罪人はそれときまったのですか」
「え、それはもう疑いがございませんそうで、前にも時々、お代官をおどしに来たそうでございます、とても手癖の悪い、そのくせ、手の利いたことは日本一といってもいいくらいの剣術使いだそうですから」
それより以上は、やっぱり人を高山にやって調べさせるよりほかはない。
おかみさんは、その気持になりましたが、何はともあれ、このおかみさんにだけは後難のかからないようにしたいものです。
五十七
この際、机竜之助とお蘭の二人が、無事に飛騨の国を抜け出して、美濃の金山の本陣に着いてしまったのは、僥倖《ぎょうこう》といえば僥倖ですが、それは一に黒川屋のおかみさんの侠気と、それに伴う心尽しの甲斐でなければなりません。
二人を無事にここまで落ち延びさせることを得せしめた黒川屋のおかみさんの働きは、善事であったか、悪事であったか、それはわかりませんが、その動機としては、あのおかみさんの功徳《くどく》を思わなければなりません。自然あの人には一切の後難を及ぼしたくないというのは人情です。
それはそれとして、ともかくもこうして国一つ越してしまった二人の悪縁はいったいこれからどうなるのだ、お蘭というぽっと出、この物語に於てはまだほんのぽっと出に過ぎない淫婦のこれらの運命は、自業自得というものでもあり、こんな女には、いっそ、これからの凄まじい世界を見せてやることが薬になるか、ならないか、それはわからないが、純な少女の空想に従って、白山の山高くも登るべかりし身が、こういう女を道しるべとして、山の飛騨の国をこれよりまたみずほの実る美濃の国に追い出され、またも涯《かぎ》りなく四通八達のところへ投げ出されねばならなくなった机竜之助というものの運命の悪戯《いたずら》のほども、いいかげんにしなければならぬ。
美濃の金山は、美濃とはいっても飛騨谷の一区劃で、それでまた飛騨とはおのずから天地を別にしているような世界であります。そこへ着いた前日に、果して黒川屋のおかみさんが予想した通りの雨でありました。
黒川屋の面《かお》や、本願寺高山御坊の名がきいて、ここの本陣で雨の日夜をしめやかな宿りについた二人はいかに。
お蘭はここに着いて、はじめて竜之助の目の見えない人であることを知りました。
眼の見えない人であることを知ると共に、この人がいい男であることを見てしまいました。
いい男というのは、どういう意味にとるべきかは知らない。本来が机竜之助という男は美男子であったか、悪男子であったか、そのことはよくわからない、よく女に惚《ほ》れられた男であるか、嫌われた男であるか、そのこともよくわからないのです。だが、今日まで女のためにずいぶん苦労をさせられて来た男であること、また女に向ってずいぶん苦労をさせ通して来た男であることも間違いはありません。そうして今では、人を殺して血を見ずに終るか、そうでなければ女を与えて助けてやらなければ生きていられないようになっていることも、万人の知るところだろうと思います。
ただ、当人は盲目的ではない、盲目そのものに生きているのだから是非もないとしても、その刃先に立てられた人命と、その相手に選ばれた女というものこそ不幸の至りというべきに、事実は、その不幸なる犠牲がいつになっても尽きるということなく、時としては喜んでその犠牲にかかりたがるのではないかとさえ疑われる。
その夕べ、風呂から上って、だだっ広い本陣の一間に、この時の男女は不思議な形をしておのおの割拠してしまいました。
竜之助は丹前を羽織って床柱に背をもたせ、例によって例の如くでしたが、お蘭がわりあいに悪怯《わるび》れてはいないのです。
黒川屋のおかみさんが投げ込んでくれた一重ね
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