になったのでございますか、わからなくなりました」
「行当りばったり……めくら[#「めくら」に傍点]さがしに手にさわったところに縁があるのだから、おたがいにもう逃れられない」
「まさかあなた様は、お代官様になさったような酷《むご》たらしいことを、わたしに向ってなさるつもりでお連れになったのではございますまい」
「そうするくらいならば、ここまでは来まいが、或いは一思いにそうするよりも、これが悪かったかも知れない」
「たとえどうなりましょうとも、死ぬよりはましでございます、わたしは殺されることはいやでございますから、どうぞお助け下さいませ、生命《いのち》あっての物種でございますもの」
「実はお前を助けるために連れて来たのではない、わしが助けられたいために、こうして来たようなものですよ」
「何とおっしゃいます、あなた様のお言葉は、どういう意味に取ってよろしいか、わたしには全くわかりませんが、どちらでもよろしうございます、わたしは助けられさえ致せば、どんな仰せにでも従います」
「ここは往来だから、こうしているうちに人が通る――さっき逃げ去った駕籠屋ども、それから前の村から人をよこすと言ったあのおどかしの旅の者、どちらにしても人目にかかってはよくないな、わしのためにも、お前のためにもよくあるまい」
「ああ、その通りでございます、もうこうなりましては、夜の明けない先に、行けても、行けなくても、せめて国境を越してしまわなければなりませんでした」
「国境までは何里あります」
「それは大変でございます、ここは久々野の村外れとしましても、美濃の国境の金山《かなやま》までまだ二十里もございます」
「二十里?」
「はい――横道を信州へ出る道もございますが、これも山の間を十里からございます、道のりは十里でも、道の悪さは一層でございますから、その道はとても通ることはできません」
「そのほかには……」
「そのほかには、もう一ぺん高山へ引返して、北国へ走るよりほかはございません、それは全くできないことでございます」
「では、結局、近いところへ隠れるよりほかはないのだ」
「それよりほかはございません。が、隠れるにしても、あなた様があれほどな大罪を犯しなさらなければ、わたしの身体が欲しいと思召《おぼしめ》すならば、わたしの身体だけを奪ってお持ちになればいいのに、飛騨の国のお代官を殺してしまっては、飛騨一国の小石の下にも、草の根本にも、身を置くところはございません」
「困ったな!」
「全く、あなた様は悪いことをなさり過ぎました」
「といって、ここで捕まるのを、わざわざ待っているのも愚だ――ともかくもお前は土地の案内知り、隠れてみようではないか」
「それより仕方はございませぬ、この近いところにいくらもわたしの知った人はございますけれども、頼めばかえっておたがいの迷惑――ただ小坂《おさか》というところに一人頼み甲斐のありそうな人がありますから、それを頼って行きたいものですが――それまでの間……」
 お蘭はようよう駕籠《かご》を這《は》い出して来ました。そうして、自分のしどけない姿を顧みる暇もなく、今まで声のみに応対していた相手の人の姿を、のしかかっている駕籠の上で認めました。
 それを認めたのは、つまり、完全に保留されていた駕籠提灯の蝋燭《ろうそく》の余光で、闇のうちにうっすりと描き出されていたその輪郭に接すると、何とはなしに身の毛がよだつ思いがしました。
 というのは、別段に異形異装の目を驚かすものがあったというわけではなく、貪淫惨忍なる形相《ぎょうそう》を予想したのが、目《ま》のあたり的中したことに仰天したようなわけでもなく、その男が冷々淡々として自分の駕籠にのしかかって、中にいた、まだ見ず知らずであるべきはずの自分というものに向って話しかけている形勢が、ちょうど十年も馴染《なじみ》の女郎の膝にもたれながら、熟しきった痴話に燃えさしの炎の花を咲かせているようなふうで、ちっとも動揺したところはなく、まして今の先、飛騨の郡代の首を水を掻《か》くように打ち落して、それを塵芥《ごみ》を捨てるように、わざわざ中橋の真中へ持って行って置いて来たほどの当人と思うわけにはゆかなかったからです。
 のみならず、自分がようやく駕籠を抜け出して来てみても、その冷々たる面《かお》はいよいよ冷々たるもので、特に自分が抜け出して来たものだから、眼を据えて見ようとも、見直そうとも心構えを直したのではない、ほんとうに、よらずさわらずの人をあしらうと同じ呼吸でいるようで、その頭巾にこぼれた半ば以上の面を見ると、白いこと、蒼《あお》いこと――そうしてその眼は沈みきって、あらぬ方を向いている、決して自分一人に眼をくれているのではないということです。
 お蘭は何とも言えず、寄るともなく、引かれるのでもなく、目が廻るようになって、自分は男の傍によると、それにしがみついていました。
「お待ちなさい、人声がする」
 その声をまずききとがめたのはお蘭でなく、竜之助でありました。
「どちらから聞えます」
 二人は、じっと静かに耳をすましていたが、お蘭が、
「向うからです、久々野の方からでございます、あれ、提灯の光も見えだしました」
「では、いま、立ち塞がった二人の者が、人夫をつれて来たのだろう」
「そうだとしますと……」
 万一、それが逆に出て、高山方面からの追手では助からないが、前途のことだけにいささか心丈夫なものがある。
「あの二人の者が、約束通り人を頼んでよこしたものだろう、だとすれば……駕籠を抜け出して隠れるより、従前の通り駕籠にいて、為すがままに任せていた方がよい」
「それもそうでございますね」
「それに越したことはない」
「逃げて逃げそこねるよりは、まさかの時まで知らぬ面をしていましょうか」
「それが上分別」
「では、あなた様も」
「お前も平気の面をして元通り駕籠に納まっておいでなさい、ただし、姿は決して見せないように」
「はい」
 二人はここで左右に別れました。竜之助も、お蘭も、最初置据えられたままの位置で駕籠の中に納まりきってしまいました。棒鼻の提灯の蝋燭はまだ六分の寿命を保ち、その炎の色も、光も、たしかなものでした。
 果して間もなくこれへ舞い戻った仏頂寺弥助と丸山勇仙――感心にも約束の通り、四人の人夫をかり集めて来ました。
「いや、これはさだめしお待遠いことでござったろうな、我々のついした咎《とが》めが利《き》き過ぎた、御迷惑をお察し申した故に、久々野の外《はず》れへ参り、人を四人だけかり催してまいったによって、御安心なさい」
 それは仏頂寺の声で、こちらは駕籠の中から、
「それはそれは御苦労の儀でござった、しからばせっかくの好意に任せて、このまま御無礼を致します」
 竜之助の返事右の通り。
「ずいぶん心置きなく。身共らは、これより少々まだ心残りがござる故に高山まで引返し申す、御無事に」
「御免あれ」
 こう言い捨てて仏頂寺、丸山は、煙の如く闇の中をすり抜けて、高山方面へ戻り行くもののようです。
 あとで、駕籠屋に向ってお蘭が駕籠の中から言いました、
「下呂の湯までずっと通したいのですが、途中、小坂の問屋へちょっと寄って下さい、頼みます」
「承知いたしました」
 難なく二個の駕籠は、ここで宿次《しゅくつぎ》の形になって、まだ明けやらぬ森林の闇に向って飛ばせるのです。

         五十五

 小坂の町に黒川屋という大きな中継問屋《なかつぎどんや》がありました。
 これは大きくいえば飛騨一国の物産を他国に出し、また他国の物資を飛騨に入れる会所であって、矢田権四郎がこれを司《つかさど》っている。
 従ってそれに相応する店の構えと、百数十の人馬が絶えず出入りして、店頭はいつも賑《にぎ》わっている。主人に代って若いおかみさんが帳場に坐って、帳面をひろげ、筆をとっている。この若いおかみさんは、主人不在の時は主人に代って帳場を司っている。
 そのおかみさんが今、店頭の賑わいを前にして帳合《ちょうあい》をしている横の方から、若い女中が一人出て来て、おかみさんに向って私語《ささや》きましたから、おかみさんが、
「なに、ちょっと内証《ないしょ》で、わたしに会いたい人が中庭に来ていますって……」
 筆を休めて女中の方へ向きました。
 そこで女中が、また小さな声で、おかみさんの耳元へ私語きましたけれど、これは店頭の物音に紛れてよく聞えません。
 が、おかみさんは、退引ならぬと見えて、帳面の間へ筆を置いて、ついと立ち上りました。間もなく女中の案内で、広い座敷を抜けて本宅の裏庭へ来てみると、土蔵と袖垣とのこちらに引添って、二つの駕籠が置かれてありました。
 庭下駄を突っかけて、その駕籠の傍へ寄って来たおかみさんは、何か後ろめたいように見返しました時、前の駕籠の垂《たれ》が細目にあいて、
「おかみさん――」
 極めて忍びやかな女の声。
「まあ、お蘭様じゃございませんか」
「おかみさん、くわしいことは何もお聞きにならずに、本当に内証でわたしの後生一生の頼みをお聞き下さいまし」
「まあ、何かは存じませんが、ちょっとお上りください、ちょっと……」
「いいえ、それができません、これから直ぐに通さなければなりません、仔細はあとでおわかりになりますが、おかみさん、あなたの着古しでもなんでもよろしうございますから、上から下までそっくり一重《ひとかさ》ねと、それからあなたのお手許で御都合のできるだけのお金をお貸し下さいませ」
「そんなことはお安いことでございますが、いったいこれはどうしたのでございます、ちょっとはよろしうございましょう……ちょっとは」
「いいえ、そうしてはいられないのでございます、全く委細を申し上げている暇はございませんのですから、只今のお願いだけを直ぐにお聞届け下さいまし」
「ではまあ、そのまま、お待ち下さいませ」
 おかみさんは、人を憚《はばか》りながら引返しましたが、やがて手ずから一包みの衣類と、一封の金と、小出しの巾着《きんちゃく》とをまとめて、忙がわしく持って出て駕籠の中へ差入れました。
 それをおしいただいたお蘭は、
「まあ、ほんとうに有難うございます。それからおかみさん、なお済みませんが、久々野のこの駕籠を担いで来た若い衆たちに固く口止めをして帰してやっていただきたいのと、お家の信用のおける若い衆を肩代りに、これから先美濃の金山まで、お頼み申したいのですが、後生ついでにこれもお頼み申します」
「まあ、お蘭様、何も聞くなとおっしゃるあなたのお頼みを、押返すような野暮《やぼ》はいたしませんが、それでも一言お話し下さいまし、あんまり気がかりでございます」
「実は、おかみさん、わたしはついつい怖ろしい人殺しの巻添えになってしまいまして、どうしてもこの国にはおられませんのです、一刻も早く他国領へ出て、それからさきのことはそれから先のことでございますが、今はこの通り寝まきのままで、走らなければなりません」
「何ということでしょう、それにはよくよくの事情がございましょうけれど、全く、それを伺っている場合ではございますまい、万事あなたのお頼みのようにするがこの場の親切と存じますから、御安心下さい」
 気丈なおかみさんは、それだけで納得して、また忙がわしく本宅へ引込んでしまいました。
 そうすると間もなく、六人の屈強な山方を庭に連れて来て、
「お急ぎなのに、ちと御用向の筋が筋だからよく心得てね――もし、何か面倒なことを言いかける者があったら、黒川屋の扱いで高山御坊だと言いきってしまって、さっさとお通りなさい。ああそうそう、あの桐油《とうゆ》をかけておいで、きっと雨が降るよ、お前たちも、うちの印のついた合羽《かっぱ》を着て行くといい」
 こう言っておかみさんが若い衆――とは言うけれど、老巧のものが多いようです、二人の肩代りを添えて六人までつけてくれた上に、途中万一の嫌疑を、高山御坊の威勢と、中継問屋の幅でくらませようとの心遣《こころづか》いまでがはっきりと読める。
 駕籠の隙間《すきま》から、お蘭は手を合
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