ざいませぬ。なあに、あなた、険山難路を軽んずるわけではござりませぬが、白骨から平湯の間は三里の路と承りました、それに三日前に人間の通った道でござりますれば、わたくしにそのあとが追えないというはずはござりますまい。食事の方もお気づかい下さいますな、これが先日いただきました蕎麦粉《そばこ》でございますが、お腹のすいた時分にこれを水で掻《か》いていただきますと、まだ私の食と致しましては五日ぶんはたっぷりあるのでございますから、それを身につけてまいる上は仔細ござりませぬ。では皆様、御機嫌よろしく。はからぬ御縁で、この白骨の谷に、皆様のあらゆる御好意の下に弁信は、三日を心ゆくばかり休ませていただきました。いずれに致せ、電光朝露の人の身、今日別れて明日のことは、はかりがたなき世の中でござりまするが、御再会の期がないとは申されませぬ、では、どうぞ御機嫌よろしく……」
 これだけの減らず口を叩いて、呆れが礼に来る一座を後にして、弁信は鐙小屋の神主と相伴うてこの白骨の宿を出てしまいました。
 宿を出る時こそ一緒ではあったが、やがて当然、二人の目的地は違います。すなわち鐙小屋の神主は硫黄岳、焼ヶ岳の鳴動の実地調査のために北へ一向きに――弁信はとりあえず飛騨の平湯を指して、西へ向ってひとり行かねばなりません。
 二人が出立したけれど、山の鳴動と、雲煙と、降灰とのほとんど咫尺《しせき》を弁ぜぬ色は変りません。神主はああ言ってわが物顔に天変地異の安全を保証顔に説き立てるけれども、要するに人間の智力ではないか――白骨谷に残る一団は、二人が去ってみると、また不安の念の襲い来るのを如何《いかん》ともすることができません。まして気休めにしろ、こういう保証も、安心も、与える者のない平湯の温泉場の人心の動揺といっては思いやられるばかりであります。

         五十三

 これより先、代官屋敷からの二梃の駕籠《かご》は、郡上街道《ぐじょうかいどう》を南にと言われたはずなのに、益田街道を一散に走りました。
 彼等はもう、走りさえすればよいと考えているのでしょう。行先地の目的なんぞは、走り疲れた上で尋ぬべきことだとでも思っているのでしょう。
 無性に飛んで、久々野《くぐの》に近いところでしょう、左に社があって、右は崖路になっていて、その周囲いっぱいに森々たる杉の木立をつき抜けて走りました。
「おい、待て、その駕籠!」
 木立の前から鋭い声がかかったので、駕籠屋どももそれには胆《きも》を奪われないわけにはゆきません。
「待て!」
 ひた走りの八本の足が、ぴったりと急ブレーキで止まりました。
 闇の中、行手に立ち塞がったのは、一人は雲つくばかりの大男で、一人は中背の一書生でした。
「まだこの通り夜も暗いのに、どこへ急ぐのだ」
「はい、はい……」
 駕籠屋は早くも歯の根が合わないようです。
「怪しい乗物と認めたぞ」
「いいえ、どういたしまして」
「行先はドコだ」
「出発点はいずれだ」
 前に立ち塞がってこもごも詰問する二人の高圧には、駕籠屋《かごや》は、もう駕籠を地べたへ伏せて、すくん[#「すくん」に傍点]で尻ごみの体《てい》です。
 これは尋常出来星の追剥の類《たぐい》ではない、前の逞《たくま》しいのは、すごい両刀をたばさんでいる、それに附添うたのもかいがいしい旅姿で、それだけでも雲助四人の手には合わないことはわかっている。
「だ、だ、だ、代官屋敷から参りました」
「ナニ、代官屋敷から来た! 高山の郡代から来たのか……」
「はい、はい……」
「して、どこへ行くのだ」
「そ、そ、それは、お客様にお聞き下さいまし」
「ナニ、乗り手に聞けというのか、貴様たちは行先を知らんのか」
「存じませんので」
「は、は、は、おおよそ、行先を言わないで駕籠に乗る奴もあるまい、行先を聞かないで、駕籠に乗せる奴もあるまいではないか。のう、丸山、行先を知らさずに飛ばす駕籠は確かに怪しい旅の者と認めて異議はあるまい」
「いかにも怪しい」
 立ち塞がった二人の声に聞覚えのあるのも道理、前なる逞しいのは仏頂寺弥助で、後ろなる書生は丸山勇仙でした。
 この二人、先日は越中街道の道を尋ねながら、ここ宮川の岸をふらふらしていたが、いまだにまだ、こんなところを彷徨《ほうこう》している。亡者共だから是非もあるまいが、なんで、天下の往来を行く乗物を遮《さえぎ》るのだ――窮して濫《らん》する小人の習い――夜盗追剥稼ぎでもはじめたかな。まさか二人ともまだそこまでは堕落すまい。
「わしらあ、存じません、駕籠ん中のお客さんに聞いてくださんせ」
 四人の駕籠屋どもは、申し合わせたように同音にこう言い捨てるや、脱兎《だっと》の如く逃げ出しました。
 逃げ出した方向は、もと来た方をめざしたのでしょうが、前後が動顛していたものと見え、四人とも一度に杉の木立の崖の下へ転び落ち、落ち重なり走るものと、また急速度で落ち込むものとがあるようでしたが、暫くして烈しい砂|辷《すべ》りがあって、水に落ちた物音が聞えました。
「あ、は、は、は、は」
 仏頂寺弥助の高笑いしたのが、こだまに響くと、
「虫めら――」
 丸山勇仙があざ笑う声もよく聞えます。
 さてこれから、乗り主の吟味にかかるのだ。仏頂寺、丸山が窮しての末、夜盗追剥の類にまで堕落したとすれば、当然、次の段取りは、駕籠の中に向って、強面《こわもて》の合力を申し入れるか、或いは身ぐるみ脱いで置いて行けとかの型になるのだが、その事はなく、高笑いした仏頂寺は存外なごやかな声で、
「これは失礼いたしました、拙者共はなにも、人を嚇《おど》し、物を掠《かす》めようとして駕籠先をおかしたのではござらぬ、時ならぬ時に、急ぎようが尋常でないから、仔細ぞあらんとお呼びとめ申してみたまでの分じゃ、それを駕籠屋ども、無茶に驚きよって雲助霞助《くもすけかすみすけ》と逃げかかったは笑止千万、乗主殿にはさだめて御迷惑でござろうが、悪意はござらぬ、ふしょうさっしゃい」
 駕籠の中へこう申し入れたのは、かえって陳謝の意味に響くのですから、中の乗客もさだめて相当に安心したことでしょう。
 丸山勇仙が続いて、それにつぎ足して言いました、
「ただいま同行の申す通り、我々は決してうろんの者ではない、かえっておのおの方の乗物が時ならぬ時に急ぎようが尋常でないためにお呼留めを申してみたまでのことじゃ……駕籠屋め、尋常に申開きをすればなんでもないことを、泡を食って逃げ出したのが笑止千万……しかし、おのおの方の御迷惑はお察し申す、いずれへお越しのつもりでござったかな」
とたずねた時に、後ろなる駕籠の中から、
「下呂《げろ》の湯島《ゆのしま》まで急がせるつもりでした、病人がありましてな」
 答えたのは落着いた男の声です。
「は、はあ、下呂温泉まで、御病者を連れてのお早立ちかな、なるほど……それははや、駕籠屋に逃げられては、いや、どうも我々共の粗忽《そこつ》から飛んだ御迷惑をかけ申した。が、さりとて、我々が駕籠屋に代って御身方の乗物を担いで行くというわけには参らぬ。是非に及ばぬ、我々は一足先に行手の村里へ参り、しかるべき人夫を頼んでこれへ遣《つか》わし申そう。いやはや、飛んだ御迷惑お察し申す、暫時、これにて御辛抱あれ、あちらの村里より迎えの者を遣わし申す」
と言うかと思えば、二人の豪の者は、さっさと行手の闇に進んで行ってしまった気色《けしき》であります。
 社頭の森の深い木立の前に置きっぱなされた二つの駕籠、その迷惑は全く思いやられるばかりだが、これでも案外なことの一つに、立ち塞がったいたずら者が、少しも危険性を帯びていなかったということだけが不幸中の幸いでしょう。
 駕籠はやや暫くというもの、ぽつねんと置き据えられたままでありました。

         五十四

 暫くすると、いつのまに出たか竜之助の姿は、前のお蘭の駕籠の上にのしかかって、頬杖をついているのであります。
 それは、駕籠屋には置捨てられたけれども、駕籠そのものはどちらも異状がないのみならず、駕籠の棒鼻に吊《つる》された提灯《ちょうちん》までが安全無事で、駕籠中の蝋燭の光も安全に保存していたところから、竜之助の輪郭をうっすらと闇の中へ描き出しているのでよくわかります。
 お蘭の駕籠の上へ、重く、静かにのしかかった竜之助は言いました、
「お蘭さん、お蘭さん」
 下なる駕籠の中で女の返事がしました、
「はい……」
「これから、どうしような」
「あなた様はいったい、どなた様でいらっしゃいますか」
「わしかね……わしの一代記を言うとなかなか長いがね」
「何のためにこんなことをなさいましたか」
「それは、お前の仕えている胡見沢《くるみざわ》という新お代官のために、こんなことになったのだ」
「あなたは、殿様に何ぞお恨みでもあって、あんなことをなさいましたか」
「何も、別段に深い恨みというものもなかったが、つい、ちょっとしたことから、敵に持たねばならなかったのだ、つまり、わしの大事にしている妹を、あの代官が屋敷へ連れて行ってしまったことに始まるのだ」
「まあ……それでは」
「それがために、よんどころなく人を手引にして、あの代官屋敷まで忍んで行って見るとな」
「あ、わかりました」
「たずねる妹は見当らなかったが、その身代りでもあるまいが、お前というものが与えられたようなものだ」
「それで、あなた様は、これから、どちらへわたしを連れていらっしゃるおつもりでございますか」
「さあ、それは、わしにはわからないのだ、お前に聞きたいのだ」
「わたくしにわかろうはずがござりませぬ。ああ、あなた様があんなにまでなさりさえしなければ、またどうにか道はございましたろうに、ああまでなされてしまった上は、もうほかにのがれる道はありませぬ」
「あれは、よんどころない」
「でも、あんまりむごたらしい。この上わたしをお連れになって、どうなさるおつもりでございますか」
「どうしようも、こうしようもない、妹が取戻せないその埋合せに与えられた、お前という相手次第のものだ」
「では、わたしというものを人質として、お妹様とお引換えなさる御了見でございましたか」
「いや、そういう商売気もなかったのだ。あったとしてみたところで、これは人違いだ、引換えてもらいたいと言っていまさら代官所へもお願いにも出られまいから」
「あなた様は、やけ[#「やけ」に傍点]をおっしゃいます、ほかの意趣や遺恨《いこん》とちがいまして、相手はかりそめにも土地のお代官でございます、ここまで来られたのが不思議なくらいでございますが、どう間違っても国境《くにざかい》へ出るまでには、きっと捕まってしまいます」
「だが、その時はお前も逃げられまい」
「わたしは、わたしは代官の身内の者でございます」
「ははあ、その身内というのも、代官が生きておればこそだろう、今となっては屋敷中の疑いは、わしの身よりもお前の身に集まっているに相違ない」
「え、え、どうして左様なことがございますものか、罪人はあなたでございます、わたしは何も存じませぬ」
「いやいや、わしの何者であるかは、誰ひとりとして屋敷の中で知っているものはあるまいが、代官が討たれて、お前だけがいない――わしは逃れられない限りもないが、お前の疑いだけは解けない。よし疑いは解けても、お前を嫉《ねた》む者のたくさんある中から、かばう者は一人もあるまい。何はともあれ、罪の中のいちばん重いのにかけられるにきまっている、まあ軽くって磔刑《はりつけ》かな」
「いやでございます」
「それから、お前の兄の嘉助というのもあぶない」
「まあ、どうして嘉助のことを御存じですか」
「お前の親類中がみんなあぶない、お前が生きていなければよろしい、あの代官と枕を並べて討たれていたならば、まだし、親類中は助かったかも知れない」
「わからなくなりました、あなた様は、何かお怨《うら》みがあって殿様を殺害においでになったのですか、ただお妹さんを取返しにおいでになったのですか、それともわたしというものを、かどわかすために屋敷へおいで
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