らが、あれで、間違いが起らないというのは……話に聞く畜生谷というのが、やっぱりこうした人気なところかしらん、それにしても、これらの人たちがみんな、人も許し、我も許し、いい気で遊び興じているその人情の無制限が不思議だ、と思わずにはいられなくなりました。
 北原の友人、町田なにがしなどは、自分がピンピンしているために、そう引込んでばかりはいられないと見え、時に賑《にぎ》わいの方へ姿を没しては、いいかげんの時分に戻って来ることはあるが、その都度、
「驚いたもんだ、驚いたもんだ、人間というやつがみんなここまで許し合っていると、全くお話にならん、及ぶべからず、及ぶべからず」
 こういう景気が連続して、いつ終るべしとも見えない歓楽の日が続くこと約七日ばかり、ここに歓楽の天地をひっくり返す物音が意外のところから起りました。
 その意外のところから起った物音が、これら歓楽のすべての色を奪い去り、塗りつぶしてしまいました。
 それは天意といえばいわれるほどの地位から、偶然に落下して来たのも、偶然といえば偶然、果然といえば果然かも知れません。

         四十六

 それは何事かといえば、この飛騨の平湯のつい後ろにそそり立っている焼ヶ岳、硫黄岳が鳴動をはじめたのです。
 焼ヶ岳は、信濃と飛騨に跨《またが》って、穂高と乗鞍の間に屹立《きつりつ》する約二千五百メートル、日本北アルプスの唯一の活火山ですから、鳴動することはそんなに不思議ではありません。常に煙を炎々と吐いているくらいの山だから、時に吼《ほ》え出すこともあたりまえなのであります。
 古来鳴動の歴史もずいぶん古いものでありましたが、土地が高峻にして人目に触るる機会が少なかったために、その鳴動も、浅間や磐梯のように、人を聳動《しょうどう》はせしめませんでした。ところが、この際、この歓楽の日うちつづくうちの或る夕方――突然鳴り出したことも、気にしたものとしなかったものと、気にするにもしないにも、それが耳に入らなかった者の方が多かったのですが、その夜寝て翌朝の暁、俄然とした大鳴動が、ほとんど平湯にいた残らずの人の夢を打ち破ってしまいました。
 この鳴動だけは、誰も聞かなかったというわけにはゆかなかったのは、山が大鳴動をしたのみならず、寝ている床の下が大震動をしたのですから、一時に夢を破られた連中がみな飛び出しました。
 飛び出して見ると、外は色の変った雪です。払って冷たくない雪でした。つまり今、ほとんど寝まきの半裸体や、或いは一糸もかけぬ全裸体で飛び出した総ての人の上に、盛んに灰が降りかかっているくらいですから、暁の天地は泥のようでした。
 つづいて第二、第三の大鳴動があって、地が震い、同時に頭上、山々の上の空に炎が高く天をこがしているのです。
 歓楽の客は狼狽せざるを得ません、仰天せざるを得ません。
 暫くは為さん術《すべ》を知らず、濛々《もうもう》と降りかかる灰を払うの手段もなく、呆然《ぼうぜん》と天を仰いで立ち尽したままです。
 しかも、その音は轟々として山の鳴動は続き、時々、きめたように地がブルブルと震え、霏々《ひひ》として灰は降り、硫気はいよいよ漂い、空は赤く焦《こ》げてゆくのです。
 飛騨の平湯の天地の昨日の歓楽は、今日の地獄となりつつ行きます。
 但し被害の程度としては、まだ何もないのですけれども、人心の滅却は被害の計算で計るわけにはゆかないのです。昨日までは我を忘れて、湯槽に抱擁し、土地に貪着していた人々が、今日はわれ先にとこの天地を逃れようとするところから、人間界に動乱が生じました。
 まず人間が人間の奪い合いをはじめました。それは物と物との奪い合いでもあり、肉と肉との奪い合いでもあるようだが、要するに先を争って逃げようとする者に対しての交通機関と、人夫の奪い合いが原因であります。
 北原賢次は存外、落着いていました。事実は、こう足を怪我していては、落着いているよりほかはせんすべがなかったのかも知れないが、それでも、昂然として言いました、
「それ見ろ、人間があんまりふざけると、山までがおこり出すわ」
 小気味よしと見たのではあるまいが、また、自分が逃げ出すことのできない腹癒《はらい》せの私怨とのみは思われません。
 全く、少しでも離れたところで見ていると、こうも人間がふざけ切ったのでは、山がおこり出すのも無理はない、と思われたのでしょう。
 天災は天災、人事は人事、ポンペイの町が腐敗していたことと、ヴェスビアスの山が火を噴き出したことと何のかかわりあらんやと言ってしまえばそれまでだが、地殻のゆるむところに人気もまたゆるむ、物心一元の科学的根拠をまだ発見した人はないが、人心のゆるむところに天変地異が来《きた》ることを、古来、人間は無意味に看過することはできなかった性癖がある。科学者はつとめてその両者を無意味、没交渉に看過せしめようとするけれども、人心の奥底には、誰しもその脈絡を信じようとしてやまぬものがあるらしい。
「焼ヶ岳も気が利《き》かない、鳴動するなら、軟弱外交の幕府の老中共の玄関先へでも持って行って鳴動してやればいいに、爆発するならば、黒船の横っ腹へでも持って行って爆発してやればいいに……」
と、町田が附け加えました。
 それはいずれにしても、このたびの鳴動は、容易ならぬ鳴動でありました。今までの分が、焼ヶ岳としては有史以来の鳴動であるとすれば、今後のことは測り知られないと言うよりほかはありません。
 北原、町田らは、やや離れた見方をしているに拘らず、これからの身の処置に就いてはなんらの思案のないところは、歓楽の一団と同じようなものです。
 山の鳴動と共に、地は時を劃して震動する。時を劃して震動するのがかえって連続的にするよりも人心を脅かす程度が深いのは、恐怖する時間の余裕を与えらるるからでしょう。
 空は暁ほど赤くないのは、つまり日中になったせいであって、火勢が衰えた結果ではないでしょう。その証拠には降灰がいよいよ濃くなって、のぼりのぼっているはずの天日をも望み難い色を深くしてくるのでもわかりましょう。
 爆発したのは焼ヶ岳ではない、硫黄岳だという者もあります。いや硫黄岳ではない、焼ヶ岳の南側だという者もあります。いやいや、焼も硫黄もどちらも噴き出しているのだ、手がつけられないと叫ぶ者があります――少なくとも五十里四方は火の塊《かたまり》になってしまうのだと泣きわめく者もあります。

         四十七

 それは焼ヶ岳であっても、硫黄岳であっても、どちらでもかまわない。信濃の人は、硫黄岳も焼ヶ岳も同じものに見るが、飛騨ではこの二つを区別している。
 それはそれとして、この鳴動と、そうして噴火と、地震とが、飛騨の平湯の人間の歓楽の法外を憤ったためのみではないという証拠には、それに恐怖を感じたものが、平湯の温泉の歓楽の人のみでなかったということでもわかります。
 平湯よりも一層、焼ヶ岳に近いといってもよろしい白骨の温泉に於ては、その被害と恐怖とを蒙《こうむ》ることの程度に於て、より大なるべきは疑いの余地もありません。しかし、ここ白骨温泉の客は、以前の通りで更に変らず、イヤなおばさんの全盛時代はいざ知らず、只今は平湯の客のように、人倫を無視した程度にまでの歓楽に酔っていたわけでもないのに、彼よりも危険なることなお一層の境地に置かれたのは、罪障のためでなく、運命の不幸と観ずるよりほかはないと見えます。
 もはや、白骨の温泉も、歌でもなし、俳句でもなく、絵でもなく、はた炉辺閑話でもありません。この鳴動と共に、みんな期せずして炉辺へ参集したけれど、それは万葉の講義を聞かんがためでもなく、七部集を味わわんがためでもない、さしもイカモノ揃いが悉《ことごと》くみな驚歎しきった色を湛《たた》えて、
「さて、どうしよう」
というは、ほとんど落城の際の最後の評定《ひょうじょう》みたようなものです。
 しかし、いずれも相当の教養と覚悟のある連中でしたから、悪怯《わるび》れるということもなく、この評定も決断的に一定せられてしまいました。
 すなわち、何といってもいまさら動揺することはすなわち狼狽《ろうばい》することである、これから険山絶路を我々が周章狼狽して足の限り逃げてみたところで何程のことがある、山が裂けた以上は、ここ数十里の地域は熱鉱を流すにきまっている、逃げられないものなら逃げるだけが無益、むしろここに最後を死守して、相抱いて溶鉱の中に埋れ去るのがいいのだ、鎮まるべきものならば時を待つに越したことはない、結局、運命を山に任して、山が動き出した以上は、人間がむしろ山の株を奪って動かざること人の如し――と度胸を据えた方が遥かに賢明である、勇略である。
 ということに、すべてが一致してしまいましたから、山の鳴動は劇《はげ》しくなるとも、白骨の人間にはかえって動揺を与えないで、一致の心を起させたものです。
 けれども、浴槽につかっても、今日は窓越しに青天のうららかさを見ることもできず、白骨の朝日に映《は》ゆるのを眺むることもできず、いわゆる天日を晦《くら》くして灰が外に降り籠《こ》めているのに、湯壺の底までが時々鳴動してくるものですから、湯の中にもいたたまれないで、期せずしてみんな炉辺へかたまって淋しい笑みを湛えてみたり、途切れ途切れに人の噂をしてみるくらいのものです。その噂も北原君らのことが主になるが、北原も平湯にいることは確実だから、その恐怖被難に於て、我々に劣らないものだということになると、思いやりもまた暗くなるばかりですが、その時、つい近くの入口の戸をトントン叩いたものがありましたから、またゾッとせざるを得ません。ところが外で案外のんびりした声で、
「おあけ下さい、鐙小屋《あぶみごや》の神主でございますよ」
 ははあ、鐙小屋の神主さん、そのことは忘れていた。その心細い程度に於て北原君よりもいっそう――気の毒千万、さすがの行者も心細くなって、ここをめざして降る灰の中を身を寄せて来たのだ。
 十二分の同情をもって入口をあけてやると、果して、鐙小屋の神主が蓑笠《みのがさ》でやって来たのです。蓑笠も灰でいっぱいですけれども、その被《かぶ》りものを取去った神主さんの面《かお》は相変らず輝いたもので、実に屈託の色が見えなかったことは、この際、一同をしてさすが神主さん――と感心させました。
「大変に山が鳴り出しましたね、しかしまあ、御安心なさいよ」
 こちらが同情したのがかえって先方から慰めの言葉を送られる。斯様《かよう》な際には、ただ単に平然たる人の面色だけを見てさえ大きな力になるものですが、この神主さんは平然たるのみならず、またいつものかがやきをちっとも失ってはいないのみならず、この天災にも充分の見とおしを置いて、あえて騒ぐに足らずといったような態度は、つまり、焼ヶ岳を鳴らしたのも、自分がちょっと火を焚きつけて来たことだから、みんな騒ぎなさんな、もう少しすれば音がしなくなる――ということをでも、わざわざ断わりに来たもののようでしたから、一同がそれだけに多大の心強さを与えられたもののようです。

         四十八

 とにかく炉辺に集まった一同は、鐙小屋の神主の来臨を、暴風の際の船の中に船長を見るような気持で注視しました。それと同時に、暴風の際に船長が自若たることが、すべての乗組人をいわゆる親船に乗った気持の安心に導くことと同様に、この神主の自若たる言語容貌が、すべてのイカモノを欣快せしめ、
「大丈夫ですか神主様、心配はありませんかね」
 神主は笠を取ったままで、蓑は脱がず、草鞋《わらじ》ばきのままで土間に突立っていて、炉辺へは上って来ないのです。
「心配はありません、火を噴く山を傍に持っていれば、この位のことは時々あると覚悟しておらにゃなりませんよ」
「そうですか」
「いったい、火を噴くと言いますが、火を噴いちゃいないのですよ、時々石を降らすには降らしますが、火は噴きませんや、夜になって赤く見えますが、ありゃ火じゃございません」
「ですけれども水を吹いてるわけ
前へ 次へ
全44ページ中31ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング