その間に当の罪人は、土壇場へ曳かれて行って馬から卸される、卸されたところに磔刑柱《はりつけばしら》が寝ている。下働きと非人と人足の都合六人が、罪人を取って抑えて、これを柱へ縛りつけようというのです。
 ここまではすいすいと運ばれて来たが、いよいよ非人の手で、下へ置かれた磔刑柱の上へ大の字に寝かされ、手は手、足は足で縛りつけられようとする時に、右の罪人が物を言いました。
「お願いがござります」
 検視の役人が聞きとがめて、
「何事じゃ」
「このお縄を、あれにおる娘に、縛らせてやっていただきとうございますんですが……」
「何と?」
「罪ほろぼしでございますからな、あの娘に、親爺を磔刑柱に括《くく》りつけさしていただきとうございます。おころ、おころ」
 罪人は、声高く呼びかけると、手持無沙汰でうろうろしていたさいぜんの尼がかけて来ました。
「おころや、お前、お父《とっ》さんを縛れや」
「え?」
「お役人様にお願い申してあるからな、お父さんをそのお縄でこの柱へ縛れ」
「え?」
「かまわないから縛れ」
 低能ではないが、狼狽《うろた》えきっている小さな尼は、この際、父の命令の意味するところを知らず、役人に向って念を押すことも知らず、あちらを見、こちらを見ていると、罪人がまた下から言いました、
「お父さんが釜うで[#「うで」に傍点]になれば、お前も抱いて行くのだが、お父さん一人のお仕置で済むというのは御時世のお慈悲と、それからお前のころものおかげだ、罪ほろぼしにお父さんを縛れ、ここでお父さんの言う通りになるのが本当の孝行というものだぞ、お役人様にお願い申してあるから、縛れ、お前のために捕まって、お前の手で縛られてこそ、このお父さんが浮べるというものだ、いいから縛んな」
 その時、検視の役人が二三、こそこそと額を鳩《あつ》めました。まもなく、右の小さい尼は、別な人に促されて、退引《のっぴき》ならず数珠《じゅず》を納めて縄をとりあげたものです。
 まもなく、見物の群集の眼は、この小さな尼が、磔刑柱に載せた人間の五体の間を立ちめぐって、しきりに働いているのを見ました。
 言いつけられた通り、素直に罪人なる父を磔刑柱に縛りつけているのです。と言ったところで、罪人を磔刑柱に縛りつけるには、また縛りつけるで一定の方式がある。
 まず第一に足首を横木へ結びつけることからはじめて、次は両人ずつ左右へ廻り、高腕を腰木へ結びつけ、それから着類の左の脇の下のところを腰のあたりまで切り破って、胸板のところへ左右より巻き、二ところばかり縄でいぼ[#「いぼ」に傍点]結びにする、その上へたすき縄をかけ、その上に胴縄をとって腰のところで縄を二重にしっかりと結びつけることで終る――
 その道の本職が幾人も手を合わせてやるべき仕事を、ぽっと出の幼尼ひとりに任せられるはずのものではない。自然、罪人の望み通りに縛ることを許したとは言い条、事実は下働きと非人と人足とが手を持添えて、その要所要所におまじないをさせるだけのものであります。
 こうして、仕来《しきた》り通りに柱へくくりつけられた罪人は、次に手伝いとも十人ばかりして、その柱を起して持ち上げ、かねて掘り下げて置いた穴の中へ押立て、三尺ばかり埋め込んで、根元をしっかりつき固める。
 ここで罪人は全く正面をきって、高く群集の万目の前に掲げられたものですから、矢来の外がジワジワと来ました。
 検視がズラリと床几《しょうぎ》に坐る。
 下働非人が槍をもって左右へ分れる。
 右の方にいた非人が、突然、槍をひねって、
「見せ槍!」
 一声叫ぶ。
 槍の穂先がキラリと光って、罪人の面前二尺ばかりのところを空《そら》づきに突く。
 と、左の一方のが、
「突き槍!」
 その一声で、罪人の右の脇腹からプッツリ槍の穂先、早くも罪人の左の肩の上へ一尺余り突抜けている。血が伝わるのを一刎《ひとは》ね刎ねて捻《ひね》る。
「うむ――」
 これは本当は抉《えぐ》るそのものの絶叫。
 この辺で群集の海に、
「南無阿弥陀仏――」
の声がつなみのように湧き上る。見るもののほとんど全部といっていいほどが、下を向いたり、眼をそらしたりしたものですが、今のその長く引いた罪人のうめき[#「うめき」に傍点]の唸《うな》りだけは、聾《つんぼ》ではない限りの腸《はらわた》を貫いて、生涯忘れることのできない印象を残さずにはおかないことでしょう。
 それから後の、左右交互に突き出し突き抜く槍先と、一槍毎に弱りゆく罪人の唸りとを、まともに目に見、耳に留めるものはおそらく一人もなかろうと思われたのに、たった一人はありました。それはお銀様。
 役目の人は知らず、こうして非人がアリャアリャと都合三十槍突いたのを矢来の側の特別席とでもいったところに立っていて、最後まで眼をはなさずに見届けていた者に、お銀様がありました。

         四十三

 お銀様は、土器野《かわらけの》にて行われた味鋺《あじま》の子鉄の磔刑《はりつけ》の場面の最初から最後までを、すべて見届けた一人には相違ありませんでしたが、唯一人とは言えませんでした。見物の大多数の中には、お銀様同様に、ほとんど目ばたきもせずして、この三十槍の残らずを見届けたものが、役向一同のほかに、まだ確かに一人、存在していました。そのお銀様以外の一人というのが、年魚市《あいち》の巻から姿を現わして、岡崎藩を名乗った梶川与之助という振袖姿の美少年でありました。
 この少年は今日、足駄がけでやってきて、矢来の外に立ち、大多数がすべて面《かお》を伏せた時も、更にはにかむことなく、じっと眼を凝《こ》らして、人間の死んで行く落ち際の表情を、漏らすことなく見ていたことは間違いありません。
 それは、やはり、見るべく見に来たのですから、単に自分の興味のために、或いは後学のために見に来て、滞りなくその目的を果したものですから、三十槍で検視の事済みになると、あとのことは頓着なく、さっさと歩み去って名古屋城下へ来てしまいました。
 同じ日のそれよりさき、お角さんは、忌々《いまいま》しがりながら、蒲焼の宿から、お銀様の宿としていた本町の近江屋へ引移って来ました。
 それは、明日の出立にまた何ぞ御意の変らぬうち、お銀様の膝元へ落着いてしまった方が安心といったせいもあるでしょう。また、出立についての万端、ここの方が都合がいいことにもよるのですが、磔刑を見物に出たお銀様がまだ帰らない時分に、もう引越しを済まして、出立の荷ごしらえ、あれよこれよと世話を焼いているところへ、
「姉御さん」
といって、つと入って来たのは、土器野帰りの岡崎藩の、美少年梶川与之助でありました。
「まあ、梶川様」
「おばさん、今日は面白いものを見て来ましたよ」
 姉御と言ったり、おばさんと呼んだりする、この美少年の心安だてな言葉に、お角さんが釣り込まれて、
「それはお楽しみでございましたね」
「楽しみというわけではないが、滅多に見られないものを、よく見て来ました」
 ここまで来てもお角さんはまだ覚めない。
「それはまあ、ようございました、そのお土産話《みやげばなし》を伺おうじゃありませんか」
「実はね、土器野で磔刑《はりつけ》を見て来たのです」
「磔刑!」
 ちぇッ、またしても、今日この頃は時候のせいか、よくよく磔刑を見たがる人ばっかり――人面白くもない、と、お角さんがうんざりして、
「お若い時分には、そんなものを見たがるものではありませんよ」
「でも、見ようとしても、一生に一度見られるか、見られないか、わからないものだから」
「そんなもの、一生見ないで過ごせれば結構じゃありませんか」
「おばさんは、嫌いなのかね」
「誰が磔刑の好きな奴があるもんですか――わたしなんぞは見るどころか、聞いてさえもいやなんです」
「そうですか、それでは話すのをよしましょう」
 そう素直に出られてみると、お角さんも、自分の弱気に向って憐れみを受けたような気になって、
「と言ったものですが、時と場合によればいやなものを見届ける度胸も大事ですね。怖がるわけじゃないが、虫が好かないだけなんです。いったい、今日磔刑の当人というのはどんな奴なんですか」
「おばさん、まだそれを知らないの、味鋺《あじま》の子鉄のことじゃないか」
「いっこう存じません、旅先のことだもんですから」
「では、その味鋺の子鉄なるものの来歴を話してあげようか」
と言って美少年は、前述のような凶賊で味鋺の子鉄があることと、役向が、それを捕えるに苦心惨憺していたが、その女の子が一人あったのを尼にして、それを囮《おとり》にして首尾よく捕ったことを説いて聞かせると、勢い今日のお仕置の場で、その子尼が親に水を飲ませ、親を磔刑柱の上へ縛りつけたことまで説き及ぼさねばなりません。それを事細かに話されて、お角さんが変な気になってしきりにうなされてしまいました。今の先は聞いてもいやだと言った磔刑の話を、知らず識《し》らず、根掘り葉掘り聞くようになってみると、この美少年の知識は人伝《ひとづて》ですから、お角さんの根掘り葉掘りに対して、つまり味鋺の子鉄なるものの生立ちから、性質の細かいことなんぞは知っていようはずがないから、勢い、どうしても、磔刑の場で見た子鉄の印象を深く語って聞かせるより仕方はありませんでした。
 しかし、こうなってくると、お角さんは、どうしても味鋺の子鉄なるものの本質を、もっともっと深くつきとめねばならない気がしました。
 そうして、お茶やお菓子をすすめながら、話がかなり深刻になって行ったが、やがて美少年は、
「それはそうとして、おばさんは、いつ名古屋をお立ちなの」
「明日は間違いっこなし」
「では、必ず清洲へお立寄り下さいよ、待っていますから」
「それも間違いございません」
「では、今日はおいとまをします」
 こう言って、美少年は立ちかけました。
「まだよろしいじゃありませんか」
「いや、ちょっとお立寄りのつもりを、かなり長く話し込んでしまいました」
 美少年はどうしても辞して帰るべき頃合いとなったので、お角さんは、それを丁寧に送って出ました。
 こうして見ると、二人はもう、かなり心安立てになっている。それは、お角さんもああいった気性であり、この美少年も、お角さんがはたで危ながるほど切れる性質に出来ているくらいだから、話も、息も、合うところがあって、それで、この逗留中も、名古屋へ出かけるごとに蒲焼のお角さんの宿をたずねて、相当に親密になっているらしい。送られて廊下を歩みながら美少年が言う、
「わたしも、ことによると近いうち、九州へ行かねばならぬようになるかも知れませぬ」
「たいそう遠いところへ、それはまたどうしてでございます」
「落ち行く先は、九州|相良《さがら》……というわけではないが、肥後の熊本まで、退引《のっぴき》ならずお供を仰せつかりそうだ」
「それは、大変なことでございますね」
と言っているうちに玄関へ来ると、お角が女中たちに先立って、この美少年のために履物《はきもの》を揃えてやりました。
「これは恐縮」
と言って草履《ぞうり》を穿《は》く途端に、ちょっとよろけて、美少年の手がお角の肩へさわりました。お角はそれを仰山に抑えて、
「おお、お危ない、お年がお年ですから、お足元に御用心なさいまし」
「いや、どうも済みません、では、明日はお待ち申していますよ」
 この途端に、すっと入違いに無言で、大風《おおふう》に入って来た人がありました。
 それは、土器野から廻り道したものか、この時刻になって立戻って来たお銀様でありましたから、機嫌よく美少年を送り出した途端に、この気むずかしやの苦手《にがて》を迎えねばならぬお角さんは、ここでちょっと気合を外《はず》されてしまった形で、
「これはお嬢様、お帰りあそばせ」
 今まで美少年を相手にしていた砕けた気分がすっかり固くなり、言葉の折り目もぎすぎすしているようで、我ながらばつが悪いと感ぜずにはおられません。

         四十四

 そうして置いてお角さんは、お銀様の部屋へ御機嫌伺いに出
前へ 次へ
全44ページ中29ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング