ようとも、お前は手出しをしてくれるな、道庵は道庵だけの能ある爪を持っている、平常は隠して用いないが、いざとなれば奥の手を出して、いかなる敵にもおくれを取るものではない。
こういうことを言いましたけれども、米友はまたちゃらっぽこ[#「ちゃらっぽこ」に傍点]がはじまったという面《かお》をして取合わない。
とにかく、今度は、いかなる眼前に危険が迫ろうとも、友様、お前は手出しをしてくれるなよ、その代り、もうこれまでという時には、器量いっぱいの大声を挙げて、「友様、後生だから頼む!」と叫ぶから、その声を聞くまでは、じっと辛抱して見ているんだよ、もし道庵の口から後生だから頼む! の一言が出ねえうちに、お前が短気を起して、加勢なんぞしようものなら、もうその場限り親分子分の縁を切り、京大阪へも連れて行かねえし、その熊の子なんぞも取りあげてしまうから、よくよく心得ていてもらいてえ。
念を押して言うものだから、米友も何のちゃらっぽこ[#「ちゃらっぽこ」に傍点]とは思いながらも、何か先生には先生だけの腹があるのだろう、いよいよという時、後生だから頼む! の一言を聞き届けた上で飛び出せばいいのだ、こう考えてしきりに頷《うなず》きながら、旅立ちの仕度をする。
一方、道庵は、すべての用意を整えた上に、なお悠々と机に向って何かしている。見れば大奉書の紙をのべて、何か恭《うやうや》しく認《したた》めている。それを認め終ると、どこからか青竹の手頃なのを一本持ち出して来て、その上へしきりに手細工を試みているから、米友が、これも少し変だと覗《のぞ》きこむと、その手頃の五尺ばかりな青竹の上へ、道庵がお手前物の薬を盛る匙《さじ》を一本、しきりに結びつけているものですから、
「先生、そりゃ何のお呪《まじな》いだえ」
「おまじないなものか、これさえありゃ敵何百騎|来《きた》るとも……」
と、ぶつぶつ言いながら、その匙を青竹に結びつけてしまうと、肩に担《かつ》いで道庵が門口へと下りたちました。
その時は、もう箱車が玄関へ横附けになっている。その車には鉄の檻が載せてあって、中には熊の子がいる。
そこで、今度は間違いなく、足許の明るい時に、道庵主従は永らくの名古屋の宿を出立しました。
もう暇乞いもとうに済ましてあり、見送りも見送ってもらってあるから、生きているうちに葬式を済ましてしまったような身軽で出立しましたが、そのいでたちを後ろから見れば、以前とは趣が変った、一種異様なものがないではありません。
第一、先に立つところの道庵、風采《ふうさい》は来た時と変らないが、佐倉宗五郎が三枚橋へでも出かけるように、懐中に大奉書を七分三分に畳み込み、肩に例の匙附きの青竹を担いだということが、判じ物のようです。
これに反していつも杖槍を肩から離さないところの米友が、今日は箱車を曳いての出立であるから、槍も、荷物も、車の片隅に置かれてある。一見すれば、道庵が米友の株を奪って杖槍を持つことになったようにも見えるが、よく見れば道庵のは杖槍ではなく、匙のついた青竹だということがよくわかります。
何故に道庵が、この際、恭《うやうや》しく奉書なんぞを畳み込み、匙のついた青竹なんぞを担ぎ出したのだか、米友としては、おまじないよりほかは考えることはできないが、では、何のために左様なおまじないをしなければならぬかということは、思案に能わないのです――ただ、そのうちには分ることがあるから深く気にかけるまでのことはないと、米友は、あきらめてしまっているばかりです。
四十
こうして、未明に名古屋城下を出立した道庵と米友。
城下を離るること約一里にして、枇杷島橋《びわじまばし》にさしかかる。
これは尾張の国第一の大橋、東に七十二間、西に二十七間の二つの橋を中島で支えている。
その大橋の半ば頃へ来た時分――まだ時刻は早過ぎるほど早いことですから、さしも頻繁な美濃廻りと東海、東山への咽喉首《のどくび》も、近く人馬は稀れに、遠く空気は澄みきっていたから、橋の上に立ちどまった道庵が、米友をさし招き、
「どうだ、いい景色だろう、この橋はこれ、尾張の国では第一等の長い橋でな――上から下、横から縦まで、檜《ひのき》ぞっきだ、檜のほかには一本も使わねえところが、さすが尾州領だけのものはある」
そうして橋を一通り見せた上で、今度は頭を四方に振向け、
「今日もいい天気で仕合せだ、見な、友様、四方の山々を……そうら、あれが木曾の御岳――駒ヶ岳、加賀の白山、こちらの方へ向いて見な、ええと、あれが江州の伊吹山さ、それからそれ、美濃の養老山、金華山、恵那山……」
道庵も名古屋城頭の経験から、もはや相当に地図を頭に入れて置くと見える、しかじかと説明して、伊勢の――と言おうとしたが、どっこい、この野郎には伊勢は鬼門だと、あぶないところで食いとめ、
「そうら、ぐるりと廻れば三河の猿投山、三河とは三河の国のことで、三河は遠江《とおとうみ》の隣りで、遠江は遠州ともいう……お城を見な、名古屋の城を見な、金の鯱《しゃちほこ》へ朝日があたり出して、あの通りキラキラ輝いているところは素敵なもんじゃねえか」
道庵が喋々《ちょうちょう》として米友のために風物を説明している前面から、砂煙をまいて走《は》せ来る一隊がありました。
「ファッショ」
「ファッショ」
「ファッショ」
「ファッショ」
はて物々しいと見ていると、今度は後ろ、反対側から同じような砂煙。
「ファッショ」
「ファッショ」
「ファッショ」
「ファッショ」
道庵は、この時ならぬ物々しい前後の物音と掛け声を聞いて変だなと思ったのは、普通、こうして馳けて来るところの一隊の人の呼び声は、
「ワッショ」
「ワッショ」
ということになっている。江戸ではまたワッショを、ワッソワッソワッソワッソとつめることはあるが、ここでは、
「ファッショ」
「ファッショ」
と聞える。土地柄で訛《なま》るのか、それとも近頃はこういう発音が流行しているのか、そのことはわからないが、それが多少耳ざわりになっていると、砂煙を立てて前後から走せつけた一隊が、
「道庵待て――江戸下谷長者町の町医者、しばらく待て」
「何がなんと」
道庵は思わずこんな大時代な返答をして飛び上りました。
と見れば、前面から一隊を率ゆるところのものは、おおたぶさに木綿片染のぶっさき羽織、誰が見ても立派な国侍――それに従う紺看板が都合五名。
同時にうしろから走せつけたのは、軍学者のように髪を撫でつけた、らっきょう[#「らっきょう」に傍点]頭の男、それに従うものが、やっぱり五名の紺看板。前面のおおたぶさが、
「ヒャア、お身は江戸下谷長者町道庵老でござるげな、身は金茶金十郎じゃ、はじめて御意のう得申す、以来お見知り置きくださるべえ」
「ははあ、わしは、いかにも長者町の道庵だが、何か御用ですか」
「問わでもお身に覚えがござろう、同輩、立たっしェイ」
金茶金十郎が後ろをさし招くと、紺看板が五つ六つ、
「ここで逢いしは百年目……」
「恨み重なる垢道庵」
「もうこうなった上からは」
「退引《のっぴき》させぬ袋の鼠」
「道庵返辞は」
「何と」
「何と」
これらの紺看板が、すっかり道庵の行手に大手をひろげてしまいました。
ばかばかしくなってたまらないのは宇治山田の米友です。何が何だかわからないが、まるで出来損いのお茶番だ。
ははあ、宿許を出立の時、短気を起して手出しをするなと、道庵先生に誡められたのはこの辺だな――何かふざけて仕組んだ芝居に相違ない、少し離れて見ているに限る――車を少し遠のけて、油断なくながめていると、
その時、道庵は金十郎の前へ出て、
「わしは道庵に違えはねえが、何もお前さんたちに恨みをうける覚えはねえ」
「この場に及んで覚えなしとは白々しい、後学のため、積る怨《うら》みの数々を言って聞かそう。ならばまず第一、そちゃ、身共らが富士見ヶ原の興行になんでケチを入れたのじゃ」
「知らねえ、そんなことは知らねえ」
「知らねえというがあるか、我々りゅうりゅう工夫したものを、そちが要らざる密告で、興行中止となった無念残念――」
「そいつぁちっと迷惑だね、道庵は密告なんてケチなこたあしねえよ、こう見えても万事、強く、明るく、正しくやるのが道庵の流儀なんだからね」
「なおそれのみならず、身共先年御成街道を通行の節、三ぴんざむらいと蔭口申したこと、覚えがあろう」
「そんな覚えはありませんね」
「覚えなしとは卑怯な、身共たしかに承ったぞ、身共を三ぴんと申し、身共身内を折助呼ばわりすること、その仔細ちうはどうじゃ、返答のう致せ」
「こいつは驚いたね、御成街道の蔭口を、名古屋の枇杷島まで持ち越されたにゃ弱ったね」
「そちゃ、日頃我々を軽蔑しおる、悪い癖じゃによって、かねがねたしなめつかわそうと存じていたが、思わぬところで逢うたが幸い、いざ、三ぴんと折助とのいわれ、この場で承ろう、その返答承知致さんであれば、手は見せ申さぬぞ、ちゃ」
この時、後ろの紺看板が声を合わせて、
「そうだ、そうだ、金茶先生のおっしゃる通り、三ぴんと折助のいわれが、この場で聞きてえ、聞きてえ、道庵返事は、何と、何と――」
「ちぇッ」
道庵は舌打ちを一つして、
「何かと思えば、三ぴんと折助の講釈が聞きてえのか。そんなことは、道庵に聞かねえたって、もっと安直に聞けるところがありそうなものだが、聞かれて知らねえというのも業腹だから、後学のため教えてつかわそう、そもそも三ぴんというのは……」
この時、道庵は手に持っていた青竹を橋の欄干のところへ静かに置き、懐中へ手を入れたと見ると、例の畳んだ奉書を取り出して物々しくおしいただき、それを繰りひろげて高らかに読み出しました――
[#ここから1字下げ]
「そうれ、ツラツラおもんみるに、三一《さんぴん》とは三と一といふことなり、三は三なれども一はまたピンともいふ、ここに於て三両一人|扶持《ぶち》をいただくやからをすべて三ピンとは申すなり、まつた、折助といふは、柳原河岸その他に於て、これらの連中が夜鷹の類を買ひて楽しむ時、玉代として銭の緡《さし》を半分に折りて差出すを習ひとするが故に、折助とは申すなり、それ中ごろの折助に二組の折助あり、一つを山の手組といひ、一つを田圃組《たんぼぐみ》といふ、その他にも折助は数々あれども、この二つの折助の最も勢力ある山の手組の背《うし》ろには、百万石の加賀様あり、田圃組の背ろには鍋島様が控へてゐる故とぞ申す、もとより御安直なる折助のことなれば、天下国家に望みをかける大望はなけれども、これら大名達の威光を肩に着て諸大名屋敷の味噌すり用人と結託し、人入れ稼業を一手に占めんとする企みのほど、恐るべしとも怖るべし、帰命頂礼《きみようちようらい》、穴賢《あなかしこ》」
[#ここで字下げ終わり]
道庵が、枇杷島橋の上で、天も響けとこういって読み上げた勧進帳もどきを聞いて、
「こいつが、こいつが」
金十郎がいきり立つと、安直がしゃしゃり出て、
「あんたはん、三ぴんや言いなはるが、三両だかて大金やさかい、一人扶持かて一年に均《なら》してみやはりまっせ、一石八斗二升五合になりまんがな、今時、諸式が上りはって、京大阪で上白《じょうはく》一桝《ひとます》が一貫と二十四文しますさかい、お金に換えたら十八両六貫三百六十八文になりまんがな、それにお給金三両足しますとな、たっぷり二十両がとこありまんがな、大金じゃがな、そないに三ぴん三ぴん言うとくれやすな、チャア」
これを聞いて道庵が、さては、こいつ、阪者《さかもの》の出来損ないであったか、なるほどみみっちい[#「みみっちい」に傍点]! と感心していると、前面からのしかかった紺看板が、
「ファッショ」
「ファッショ」
ファッショ、ファッショで道庵を揉《も》みくちゃにしようと試みる。
その時、道庵は少しも騒がず、後ろへ飛びしさると見るや、かねて橋の欄干に立てかけて置いた匙附きの青竹を取って、米友流に七三の構え、
「誰だと思う、つがもね
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