あそこへ逃げ込まれては実は少し困るのだ。それは、明日になってお部屋様の角が怖いから、今晩のうちに先手を打って、御機嫌をとっておかねばならぬという用心であることは明らかで、存外この男も、お蘭に対して弱味を抑えられていることが見えないではない。
 ほどなく、戸口に立ちすくんでしまった娘の肩へ手をかけた兵馬、
「心配なさるな、主人は行ってしまいましたよ」
 その声が存外若くして、そうしてやさしいのに、立ちすくんだ女の子は息を吹き返さないということはありません。
 振返って見ると、最初の印象では雲を突くばかりの大男が手に白刃を提げて迫っていると見たのが、こうして見ると、自分とはいくらも違わないところの、まだ前髪立ちの若い侍で、抜き放されていたと思った白刃は、いつしか鞘《さや》に納められて、右の手に軽く提げ、その左の手で、和《やわ》らかに自分の肩を叩いて言葉をかけたというよりは、慰めを与えられたといってよい程に、物静かなあしらいですから、娘の子は全く生き返った思いでこちらを向いてしまいました。
 前にいう通り、神前の燈《あかり》が朧《おぼ》ろで、はっきりとはわからないのですが、その輪郭と言い、その物ごしと言い、いま受けた印象をいよいよ鮮かにするのみで、微塵も、敵意と危険とを感ぜしめられないものですから、ホッと息をついて、
「どうも、とんだ失礼をいたしてしまいました」
 こうなってみると、自分の寝まき姿が恥かしい。
 だが、やっぱり神前の薄明りが幸いして、取乱した女の姿を、そう露骨に見せるということはありませんでした。
「まあ、こちらへいらっしゃい、まだ、ここを出てはいけません――もう少しここに忍んでいらっしゃい」
 この若い、おだやかな、敵意と危険とを微塵も感ぜしめない人は、徹底的に念の入った親切と用心で、静かに、道場の虎を描いた衝立《ついたて》の方に娘を誘《いざな》いました。

         三十五

 こうして道場の中はひっそりしているけれども、中庭を歩いて行く胡見沢は、いよいよ陽気になって、何かクドクドと口走りながら、庭をぐるぐる廻っているところを見ると、この男は酔うとむやみに陽気になり、御機嫌がよくなり、人が好くなってしまう点は、神尾主膳あたりとは全く酒癖を異にしているらしい。
 やや暫くして、例のお部屋様の戸の外に立ってことことと叩き、
「お蘭さん、お蘭さん、お蘭さんはおらんかね、ちょっとここをあけて頂戴」
 人の好いのを通り越して、全くだらしのない呼び声です。
 でも、中ではこのだらしのない呼び声が聞えていなければならないのに、いっこう返事がありません。返事がないものですから、
「お蘭さん、お目醒《めざ》めでないかい、おらがお蘭さんはおらんのかい」
 何といういやらしい猫撫声だ。
 これではまるで、お人好しの宿六が、嬶天下《かかあでんか》の御機嫌をとりに来たようなものではないか、郡民畏怖の的である新お代官の権威のために取らない。
 それにも拘らず、中ではいっこう返事がない。返事がないということは、中にたずねる人が存在していないということではなく、たずねる人がお冠《かんむり》を曲げてお拗《す》ねあそばしているから、それであらたかな御返しがないのだ――ということを誰も言っては聞かせないが、本人の良心に充分覚えがあるらしい。そこで御機嫌斜めな内《うち》つ方《かた》の御思惑《おんおもわく》を察してみると、お代官も権柄《けんぺい》ずくではどうにもならないから、下手《したで》に出てその雲行きの和《やわ》らぎを待つよりほかはないとあきらめたものらしい。
 甚《はなは》だ器量の悪い締出しを食っている新お代官は、お蘭さんはおらんかい程度の洒落《しゃれ》では到底、内なる人の角を折ることはできないと観念したものか、やはり、こういう時は強《し》いて御機嫌に逆らうよりは、時間に解決させるのがいちばん安全にして賢明なる手段だと、そこは政治家だけに、転換の妙を悟ったものか、いいかげんにしてまたその開かざる戸の外を立去ってしまいました。
 立去ったとはいえ、自分の本宅へ帰って眠るというわけではないにきまっている。よし中でお返事がないとしてみたところで、このお返事のなかったことを理由として、自分が安眠の床に帰ってでもしまおうものなら、明日が大変である。それほど薄情なお方とは思わなかった、お暇を下さい、わたしよりもっと若いのをたんと引入れて可愛がりなさいだのなんだのと、矢つぎ早に射かけられるのが、とうてい受けきれたものでない――だから時間に解決させるといったところで、明朝までというような悠長な時間を意味するのでなく、もう一ぺん通り庭を廻って来て、またここに立とうというだけの時間であること、疑いもありません。
 こうして、新お代官はまたお庭めぐりをはじめだしました。でも性癖はやむを得ないもので、絶えずニコニコと嬉しそうに、クドクドととめどもないことを口走り、そうして植込から、泉水の岸から、藤棚の下、燈籠《とうろう》のまわり……をグルグルと廻っています。
 その新お代官の服装を見ると、これはまた思いきやでしょう。今晩の婦人たちは、女のくせにたしなみがない、みんなだらしのない寝まき姿で、飛んだりはねたりしているこの深夜に、さすがこの新お代官だけは、きっちりと武装をしているのであります。武装といっても、まさか鎧兜をつけているわけではないが、近頃はやるダンブクロというのを穿《は》いて、陣羽織をつけていることだけは確かです。
 してみれば、この新お代官、昼のうち農兵の調練を検閲に行ったということだから、あのまま深夜のお帰りで、まだ衣帯を解く遑《いとま》もあらせられず、家庭に於てまたこの調練だ――ということも、ほぼ想像がつくのであります。
 果して庭を、どうどうめぐりすること三べん、またも以前の戸口まで舞い戻って来て、
「お蘭さん――」
 だが、今度は意外な手答えのあるのに驚かされてしまいました。
「誰だい」
と言って戸の隙間からのぞき込もうとした新お代官は、それとは別の方面で意外な物の気《け》のするのを感じました。
 それは、その辺一帯の庭は芝生になって、そのさきは小砂利を洲浜形《すはまがた》とでもいったように敷いてあったのだが、その芝生の上に、夫婦《めおと》になって二本高く茂っている孟宗竹の下で、物影の動くのを認めたからです。
 甘いといったって、だらしがないといったって、そこは、新お代官をつとめるほどの身だから、甘い人には甘かろうし、だらしない場合にはだらしないだろうが、それが決して人格の全部ではない。辛《から》い時には辛酷以上に辛い、敏《さと》い時には狡猾《こうかつ》以上に敏いところはなければならないから、この物影がグッとこたえたものと見なければなりません。
「誰だ――」
 無論、返事はないのです。返事のないことがいよいよ許せないのは、内と外とは全く違ったもので、内の奴は返事のないほどこちらが下手《したで》に痛み入るほかはないが、この外の奴の返事のないのは――これは全くようしゃがならない、時節柄ではあり、現に先日の夜も、こういう奴があってこの屋敷を騒がし、宿直の宇津木と黒崎とに腕をさすらせたものである。
「誰だ、今そこへ動いたのは。その竹のうちにひそんでいるのは何者じゃ」
 鋭い声でたしなめたが、やっぱり返事はない、内からも、外からも……
 そこで新お代官が焦《じ》れ出しました。
 苟《いやし》くもわが城郭のうちを外より来っておかす者がある、それが、他人ならぬ主人自身の眼に触れた以上、そのままにして、今晩もまた取逃しました――では、代官の権威面目がいずれにある。
 そういきり立った時に、急に、腰のさびしさを感じました。前に言う通り武装こそしているが、腰の物は一切忘れていた、刀は持たないまでも、脇差も抛《ほう》りっぱなしで出て来た――あわただしく両手を振ってみたが、得物《えもの》とてはなんにもない、思わずあたりを振向いたけれども、暗い中に転がっている物とては、芝生の上に小石一つも目に入らない。
「お蘭――刀を出せ、いや、鉄砲を、いや、用意のあの短筒《たんづつ》を持参いたせ――」
 今までの、内に向いての言葉は拙い駄洒落《だじゃれ》であり、歎願であったけれども、この時のは真剣なる命令でありました。
 だが、歎願も歎願ととられない限り、命令も命令として徹底しないのは是非もない。静御前《しずかごぜん》でもあろうものなら、言われないさきに、逸早く用意の武器を持ち出して供給するのですが、お蘭さんは、まだまだ旦那を焦らし足りない、もう少し見ていて、いよいよ降参して来た時に、こちらの見識を見せてやろうというつもりでもあろう……一向に手答えのないこと以前の如し。
 そこで、新お代官はついに両の拳を握りました。この場合、拳を握るよりほかに戦闘準備の手はなかったものでしょう。でも、格闘の以前に威嚇をもってするが順序だということを忘れなかったと見え、
「怪しい奴、逃げ隠れたとて、この代官の眼は節穴ではないぞ、闇をも見抜く力があるぞ、たった今、それへ忍んで失《う》せたは何者じゃ、これへ出え、これへ出え」
 この威嚇に対しても手答えのないこと、内外共に同じ。
 その時に新お代官は、一種異常なる恐怖を感じてきました。
 そうして、この恐怖のうちに、自分が赤手空拳で立っているということを痛感しました。
 いかに、この場合、赤手空拳が危険であるかということを、ヒタヒタと感じました。今日、三福寺の上野で調練の時、農兵の中に盗賊がいたのを見つけて、それを広場に立たせて、農兵どもに一斉射撃をさせて帰って来たことを、この新お代官は妥当にして且つ痛快な処罰法だと自分ながら感心して帰って来たが、今や、自分がちょうどその射たれた農兵と同じ立場に置かれてあるような危険を、どこからともなくひたひたと感ぜしめられてしまいました。
 武器さえあれば、自分とても腕に覚えがないではない、飛びかかって手討にもしてくれるのだが、先方に当りのつかない敵に向って、空手で飛びかかるようなことは、こちらに相応の心得があるだけに、決してできるものではない。さりとて、ここで弱味を見せて、自分が引返しでもして、先方が得たり賢しと逆襲でもして来ようものなら、いったいどうするのだ、白昼、平野の中で、鉄砲玉の一斉射撃の筒を向けられたのと同じ立場ではないか。
 酔いはすっかり冷めたし、新お代官の特別製の太いだんぶくろ[#「だんぶくろ」に傍点]が、こんにゃくのように慄《ふる》え出しました。
 この場合、最も応急の策としては、声をあげて助けを呼ぶのほかはないのだが、その声というものは、いくら張り上げても、この際、茶化されて、いよいよ相手の意地悪い沈黙を要求するよりほかの効果のないことになっている。ならば、もっといっそう大声をあげて、ここの屋敷近くには名にし負う宇津木兵馬もいることだし、黒崎その他の手だれもいることだし、なお本陣の方には幾多の猛者《もさ》が養うてあるのだから、出合え、出合えと呼びさえすれば、お代官自身が手を下すまでもないはずになっているのに――その声が出ない。
「う、う、う」
とお代官は、連続的に一種異様なる唸《うな》り声を立てはじめたものです。
 内なるお蘭さんは、この連続的な一種異様の唸りを聞くと共に、腹をかかえて笑いこけるのを我慢がしきれなかったに相違ない、大将とうとう泡を吹いた。泡を吹いたには違いないが、まだ本式の降参を申し入れたのではない。おれが悪かった、済まなかった、今後は慎しむから、今晩のところは、ひとつかんべんしてやって下さいという口上が出てこそはじめて、開門を差許すべきもので、まだこの辺の程度で折れては、今後の見せしめのためにも悪い……と、お蘭はこんなに考えているに相違ない。
「う、う、う、う」
 連続的の泡吹きが、なおつづく。
 お蘭さんはいよいよお茶を沸かしきれないのを、じっと我慢している。
「う、う、う、う」
 もう一息の辛抱だ、もう一泡お吹きなさい、そうすれば助けて上げます……
「助けてくれ―
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