、ここは会所であると共に、交番所であり、同時に東は東の動静を、西は西の持分の動静を、おのおの報告し合って、役目の引きつぎ所ともなる。
 けれども、会合、交替、引きつぎ、すべてそう改まって角立ったことはなく、こうして三べん廻った煙草のうちの、出放題の世間話のうちに含まれて、そのすべての役目が果されてしまうわけです。
 そこで、先晩は、専《もっぱ》ら下原宿の嘉助の娘のお蘭の出世が話題となり、後ろに聞いていたがんりき[#「がんりき」に傍点]の百を大いにむずがゆがらせたが、今晩もあの調子で、
「時に、市場でも難儀が降って湧いてのう、あの娘《あま》っ子《こ》、まだ身性《みじょう》がわからんかいのう」
「まだわからんちうがのう、困ったもんじゃのう、なんでも市場の世話役は、勧賞《けんじょう》つきで沙汰をしおるちうが、つきとめた者には二十両というこっちゃ」
「二十両――このせち辛い時節に、えらい掘出しもんじゃのう」
「市場連も、勧賞と聞いた慾の皮の薄いわいわい連も血眼《ちまなこ》じゃがのう、明日の九ツまで見つからんと、あの市場総体が欠所を食うじゃろうて」
「何してもそれは気の毒なこっちゃ、勧賞はどうでもいいが、市場連を助けてやりてえもんじゃのう」
「一骨折っちゃ、どうでごんす」
「さあ、当番でなけりゃ、何とか一肌ぬいでみようがなあ、いったい、手がかりはあるのかや、物怪変化《もののけへんげ》が、木の葉をもって買いに来たわけじゃあるまいからのう」
「物怪変化じゃねえさ、ちゃんと世間並みの鳥目《ちょうもく》を払って、小豆と、お頭附きと、椎茸《しいたけ》、干瓢《かんぴょう》の類を買って行かれた清らかな娘《あま》ッ子《こ》じゃげな――払ったお鳥目も、あとで木の葉にもなんにもなりゃせなんだがな」
「小豆と、お頭附きと、椎茸、かんぴょうを買うて行ったんや、何かお祝い事じゃろう」
「どんなもんじゃろう」
「わしゃ思いまんなあ、その娘ッ子、山家《やまが》もんじゃごわせんぜ」
「だが、合羽、かんじき、すっかり山家者のいでたちじゃったということじゃ」
「でも、山家者なら椎茸なんざあ買いやしませんがな」
「はてな」
「木地師《きじし》の娘ッ子じゃござらんか」
「木地師の娘ッ子なら、たんと連れ合うて来るがな、一人で来るということはごわせんわい、それに、木地師の娘ッ子ならお尻が大きいわいな」
「土地ッ子ではなし、よそから奉公に来ている娘ッ子という娘ッ子はみんな人別を調べてみたが、当りが無いというこっちゃ」
「何とかならんもんかなあ」
「明朝九ツまでにわからんと、首ととりかえせんじゃがなあ」
「そうじて泣く子と地頭にゃ勝たれんわな。水戸の烈公さんなんて、あれでなかなか強《ごう》の者《もの》でいらっしゃったるそうな」
「水戸様の奥向は大変なことだってなあ、で、以前一ツ橋様なんぞがお世継《よつぎ》になろうものなら、それ、あの親子して狒々《ひひ》のように大奥を荒し廻るのが怖ろしいと、将軍様の大奥から故障が出て、温恭院の御生母本寿院様などは、慶喜が西丸へ入れば、わたしは自害すると言って、温恭院様の前でお泣きなされたそうな」
「奥向ばっかじゃないな、御領内の女房狩りでは、百姓の女房でもなんでも御寵愛《ごちょうあい》なさるそうだげな、前中納言様が……」
 時々、水戸家に関する有る事、ない事の浮評が、この辺、この連中にまで伝わっていると見え、消えかかった提灯の蝋燭《ろうそく》が、またはずみよく燃えさかるのである。
「水戸の今の殿様は、結城《ゆうき》から入った阿《お》いねというのを御寵愛になるげなが、この女子《おなご》は、昼はおすべらかし[#「おすべらかし」に傍点]に袿《うちかけ》という御殿風、夜になると潰《つぶ》し島田に赤い手絡《てがら》、浴衣《ゆかた》がけという粋《いき》な姿でお寝間入りをなさるそうな。それでそれ、こっちの親玉(新お代官)も、もとは水戸の出身じゃろう、その真似《まね》をなさるわけでもあるまいが、あのお蘭のあまっ子も、夜分になると、潰し島田に赤い手絡といった粋な風俗《なり》に姿をかえるげな」
「誰か、お寝間の隙見をしたものがあるのかね」
「いやもう、その辺のことは格別――水戸様ばかりじゃござんせんわい、わしらが聞いた大名地頭の好者《すきもの》には、まだまだ凄いのがたんとございますって。ここのお代官なんぞは、やわいうちでござんすべえ」
「何しても、泣く子と地頭には勝たれん、市場連中のために、その女子の心あたりを、これからなりとせいぜい頼みますぞ」
「はいはい、他人事《ひとごと》じゃごわせん」
「じゃ、これで交替」
「いや御苦労さま」
「いや御同様さま」
「どうれ」
「どっこい」
「どうれ」
「どっこい」
 こうして、東西五人ずつの非常見廻りの交替と引きつぎの事務は済んでしまったもので、おのおの御用提灯が右と左へ悠長に揺り出して行く。
 この交替と引きつぎが済んでしまった後、気のせいか、この間の晩のように、柳の木蔭にまだ何か物怪《もののけ》が残っているようです。
 あの時は、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百の野郎が、あわててくしゃみを食い殺して背のびをしたが、そう毎晩、柳の下にがんりき[#「がんりき」に傍点]がいるはずはないが、どうも非常見廻りの連中が去った後に、おのずから人の気配が柳の木蔭から、ぼかしたようにうっすりと現われて、やがて影絵のような影がさしました。
 それは別人でなく、この前の晩に宮川の川原の蘆葦茅草《ろいぼうそう》の中を、棺巻《かんまき》の着物をかかえてさまようた怪物、桜の馬場で馬子を斬ろうとして逸走せしめたあの覆面が、今晩もまた、夜遊びに出たのです。
 何の目的ということもなく、何の理由ということもないが、一旦、夜遊びの味を占めると、少なくとも一晩に一度は夢遊の巷《ちまた》を彷徨《さまよ》うて帰らないことには、血が乾いて眠られないらしい。
 この柳の木蔭にいたのは、今晩、この見廻りの連中を斬ってみようとのためでないことは、隠れていながら、少しも殺気を感じなかったのでもわかるが、ひらりと鱗を見せただけで高札場の後ろに消えてしまいました。
 そこからは、加賀の白山まで見とおしの焼野原――
 犬の遠吠えも遠のいて、拍子木の音も白み渡って、あたり次々に鶏の声が啼《な》き渡る。

         三十一

 その晩、相応院へ帰って来た机竜之助は、いつもあるべき人の気配《けはい》が無いことを直覚してしまいました。
 その蒲団《ふとん》の裾につまずき倒れようとして踏みこたえながら、夜具の中へ手を入れてみたのですけれども、中は冷たくありました。
 その面《かお》に、近頃に見なかった、すさまじい色が颯《さっ》と流れたが、どうする手だてもないと見え、そのまま刀を提げて、さっさと屏風《びょうぶ》のうちに隠れてしまって、その後の物音がありません。
 夜は全く明け放たれたけれど、今日は早く起きて水を汲む人もなし、部屋を掃除する者もなし、膳を調えて薦《すす》めようとする者もないが、座敷の一方だけはあけ放されたままです。だがあけ放されたのは、その一方だけで、他の部分は、日脚が高くなっても戸足は寂然として動かないのです。
 こうして日がようやく高くなっても、物の音は、内からも外からも起りません。寺男夫婦はこのごろ、夜の明けないうちに山伐りに出かけてしまうのを例とする。
 日が高くなったのに、いつもあけらるべきはずの家の戸があかないのは寂しいものだけれども、その戸の一枚だけがあけられて、他のみんなが閉されたままであることは、むしろ凄いものです。最初にそこへ来合わせた人は、もしや敷居の溝から沓脱《くつぬぎ》に血がこぼれていはしないかと怪しむでしょう。
 こうしている間に、ずんずん時が経ち、日がのぼります。矮鶏《ちゃぼ》が夫婦で連れ添うて餌をあさりに来たことのほかには、いよいよ訪《おとな》うものなしで、開け放されたいちいちの戸が、唖《おし》の如く動かないでいるばかりでした。
 けれども、ようやく一人の人があって、麓から登って来ました。例によって背に負うた萌黄色《もえぎいろ》の風呂敷包だけを見ても、これぞ毎日の日課としてやって来る鶴寿堂の若い番頭であることは疑いありません。
 果して、若い番頭は、えっちら、おっちらとやって来て、
「おや――」
とつぶやきました。あのこまめなお雪ちゃんが、今朝はまだ戸もあけていないということがまず怪訝《けげん》の念を刺激したと見えます。それは尤《もっと》もな怪訝で、廻って見ると怪訝が一種の恐怖に近いものになりましたのは、あけないならあけないでいいが、その一枚だけが確かにあけられてあることを発見したからです。
 若い番頭――たしか、新お代官の寵者《おもいもの》お蘭さんの言うところによると、浅吉の弟で政吉といったと覚えている。
 政吉はその時に慄《ふる》え上りました。
 盗賊? 人殺し?
 同時に、まえ言った通り、敷居の溝と沓《くつ》ぬぎのあたり一面に血がこぼれているのではないかと打たれました。
 だが、血はこぼれていなかったけれども、縁の下のところと、沓ぬぎとにおびただしい人の足跡がありました。
「あっ!」
と政吉が慄え上って、中を覗《のぞ》き込んだ縁の内側にはお雪ちゃんのさしていた、赤い塗櫛《ぬりぐし》が落ちているのを認めました。
「もし、お雪様、もし……」
 辛《かろ》うじて呼んでみたけれども、返事がないのです。ないのがあたりまえで、返事をする者があるくらいなら、戸がポカンと口をあいているはずがないのです。
 政吉は恐怖に襲われて、誰か人を呼んでみようとしたけれども、このあたりに人は無し、寺男を兼ねた夫婦の家は少し下のところにあるが、これは毎日、山仕事に行ってしまって、夕方でなければ戻らないことを政吉がよく知っている。
「もし、お雪様、お休みでございますか、鶴寿堂でございますが」
 恐る恐る中を覗いて見たが陰深として暗い。でも、このまま引返すわけにはゆかない。充分、二の足も三の足も踏んでみた末に、この若い番頭は、ようようその一枚の戸口から、座敷の上へ這《は》い上りました。
「お留守でございますか」
 駄目を押したが、手答えもなく、そろそろと侵入してみたが誰も咎《とが》める者もない。
「おやおや、お雪様にも似合わしからぬ、とりちらかしてございますなあ、何か急用で出ていらしったのか。それにしても……」
 蒲団は敷きっぱなしであるし、机の上はと見れば、自分の註文の仕事が、やりっぱなしで、紙が辛うじて文鎮の先に食留められている。平常着《ふだんぎ》だけは脱いで、よそゆきの着替えをして行った形跡は充分あるから、それが若い番頭にとっては、せめてもの気休めとなるくらいのものです。いずれにしても慌《あわただ》しいことの限りである、と番頭は、そぞろ荒涼の思いに堪えられなかったが、その時自分の入って来た一方口が俄《にわ》かにけたたましくなったのは、思いがけない人がやって来たのではなく、さきほど行き過ぎた矮鶏《ちゃぼ》めが、何と思ってか引返して、この入口から縁の上へと侵入して来たものでありました。
「叱《しっ》! 叱!」
 政吉は軽くそれを追い払って、ともかくもお雪ちゃんが、着物を着替えて出て行った形跡だけは明らかであるし、室の内も荒涼とは言いながら、何一つ盗まれているらしい様子はないことから、少し待っている限り、必ず戻って来るに相違ないものと鑑定しました。
 それまで待っていてみましょう――という気になって、あけ放された裏の方の一枚を、もう二三枚繰って明るくし、あんまり出過ぎない程度で、室内を取片づけておくことも、心安立ての好意として斥《しりぞ》けられはしないことだと考え、何かと取片づけているうちに、どうしてもひとつ、炬燵《こたつ》の中へ火をおこして上げることが急務だと考えたのでしょう。
 炬燵に火をおこした政どんは、このへんで少しいい気持になったものと見え、いつもお雪ちゃんがするようにして、炬燵を前にみこしを据えてしまうと、半ば折りめぐらされた金屏風の緑青
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