か」
「これの兄さんなんぞは、またどうして……」
 お蘭が、はしゃぎついでに、何か素破抜《すっぱぬ》きをやり出しそうなので、周章《あわ》てて盃を下に置いた若い番頭は、
「ああ、どうぞもう御免くださいまし、それをおっしゃられますと、消えてしまいとうございます」
「何のお前……」
とお蘭さんは、多少の御酒かげんでけっきょく面白がって、
「何のお前、恥かしいことがあるものかね、お前の兄さんなんぞは、高山第一の穀屋のお内儀《かみ》さんに惚れられて……」
「どうぞどうぞ、御勘弁くださいまし」
「勘弁どころか、お前の方から堪忍分《かんにんぶん》を貰いたいくらいのものだよ。高山第一の穀屋のお内儀さんに、この人の兄さんの浅さんというのが、すっかり可愛がられちまいましてね、御前……」
「もうたくさんでございます、もうおゆるし……」
 政吉は盃を下に置くと、身を翻えして、あたふたとこの場を逃げ出してしまいました。それを抑えようでもなく、あとでは、新お代官とお部屋様の高笑いがひときわ賑わしい。

         二十九

 これより先、あんな喜び方で、竜之助にしばしの暇乞《いとまご》いをしたお雪は、自分の座敷へ取って返すと、同時に気のついたのはこのなり[#「なり」に傍点]ではどうにもならないということでした。内にいる分には何でもいいが、外へ出るには、これでは……と悄気返《しょげかえ》ったのも無理はありません。あれ以来今日まで、まだ町へ下りたことのないのに、これでは仕方がない、ほんとうに貰い集め、掻集め同様の衣裳で身をつくろっているという有様ですから、全く出端《でばな》を挫《くじ》かれてしまいました。
 といって、買物を止める気にはさらさらならない、と、目についたのが、衣桁《いこう》にかけた例のイヤなおばさんの形見の小紋の一重ねです。あれを引っかけて行こうか知ら、あれなら、どうやら外聞が繕《つくろ》えるが、気恥かしいばかりではない、見咎《みとが》められた時の申しわけにも困りはしないか。
 といって、やっぱりこの場は、あれを着て行くよりほかはない。いっそ晩にしようかと思いましたが、夜は物騒であって、とても一人で出て行けるものではない。これにひっかかったお雪ちゃんは、ほとんど当惑に暮れてしまったが、ふと、壁に寺用の雨具のかかっているのを認めました。
 雨具というけれども、それは雪具といった方がいいかも知れない。竹の笠と、半合羽《はんがっぱ》と、カルサンと、藁沓《わらぐつ》といったようなものが、取揃えられてあるのを見ると、あれをお借りしようという気になりました。
 あれですっかり身ごしらえをして行けば中身は何でもかまやしない、ちょうどあんなふうにして、近在や山方から出て来る娘さんの姿をよく見かける、この辺ではかえって、あんなにして出た方が目につかなくていいと思いました。

 まもなく、笠と、合羽と、かるさん[#「かるさん」に傍点]で、町へ下りて行くお雪ちゃんの姿を見ました。
 なるほど、こうして行く方がこの辺では目に立たない、笠の中をわざわざ覗《のぞ》いて見ない限り、見咎められるはずはない、また、見咎められたとて必ずしも暗いこともないけれど、この方が安心だと、自分も思い、周囲のうつりもよかったのです。
 そうして、無事に、久しぶりに町へ出て見ましたが、焼跡の工事もかなり進んでいる。どこでどう買物をしていいか、ちょっと戸惑いをするが、ほぼ勝手を知った宮川筋を上って行くと、そこに一つの大きな小屋が立っていて、その小屋が全部、公設市場のようになっているのを見ました。
 これは、火事あとへ直ぐに出来た「お救い米」の小屋であったことをお雪ちゃんも知っている。今は、「お救い米」の時は過ぎたが、そのあとが、白米をはじめ諸日用品の廉売所となっていることは今はじめて知りました。
「お救い米」が済んだ後で、諸色《しょしき》が高くなるにつれて、売惜み、買占めをする奴がある、それを制するためにお代官が建てたものだということまでは知らないが、ともかく、この市場へ入れば、大抵の物は買えるような組織になっているのだという目利《めき》きは直ぐにつきました。そこで、お雪ちゃんは、遠慮なくこの市場の中へ入って行きました。別段に恥かしい思いなんぞはなく進入することのできたのも、この臨時の仮装の賜物《たまもの》、なるほど、自分同様の装束をした近在山里の女連が、ずいぶんこの中にいますから、心強いようなものです。
 お雪ちゃんの主なる目的としては、小豆とお頭附きを買うことにあるのです。小豆は直ぐに用が足りたけれども、お頭附きは何を買っていいか、ちょっと惑わされて、あれこれと見つくろっている。
 そこへ、お代官のお見廻りがあるというので、市場のうちがざわめいて、またひっそりとしてしまいました。売る者も、買うものも、みんな恐れ入ってしまった。大抵は土下座をきって静まり返ってしまいましたが、お雪ちゃんはどうも土下座をする気にもなれず、そうかといってうろうろしてもいられないから、乾物屋のうしろに小さくなっていると、巡検のお代官がその前へやって来たのです。
 新お代官というのは、赤ら顔のでっぷり太った男で、向う創《きず》まであるが、お代官としては存外、磊落《らいらく》な性質と見え、大声で附添の者と笑い話をしながらやって来る。実はこの公設市場は、お代官として得意な施政の一つなので、この非常の際の買占め、売惜みを防ぐものに、逸早《いちはや》く官権の手で日常物価の公平を保つ機関を作り上げた、成績がなかなかいいという報告を聞いたものだから、この際、実地検分に来たものと見えます。
 事実、この新お代官なるものは、ずいぶんと悪い噂《うわさ》もあるが、またなかなかの苦労人と思われるところもあり(前身はなんでもバクチ打ちの経歴まであるということ)したがって型破りの手腕を見せることがないではない。現にこの公設市場なんぞは、たしかに悪いやりかたではなく、物価政策の機先を制したなんぞは、たしかに月並みのお代官にはできない働きだと賞《ほ》める者もあるくらい。
 そこで、大得意で巡検してお雪ちゃんのいる乾物屋の前まで来ましたが、お雪ちゃんは直ちに、このお代官様は少々酔っていらっしゃると感じました。本来得意のところへ、一杯機嫌でしたから、怖いものの元締になっているお代官が、開けっ放しの心安いものに見えないではありません。
 笠は取りたくはないが、被《かぶ》っているわけにはゆかないから、取外してお雪ちゃんが頭を下げていると、それが早くもお代官のお目にとまったようです。
 いったい、悪い領主やお代官には、自分の女房や娘は滅多に見せるものではないのです。慣れたものは大抵そのへんは心得ているが、お雪ちゃんはあらかじめ、そんな気兼ねを置くの余裕もなにもなくして出て来たのですが、笠で隠していれば何のこともなかったのですけれど、こうして笠を取ってみると、その衣裳と面立《おもだ》ちとはどうしても釣合わないことが、この際、誰にも認められることになるのはやむを得ませんでした。
 そこで新お代官は、お雪ちゃんの前でちょっと足を止めました。
「お前はこの店の掛りかい」
 不意に言葉をかけられたので、お雪ちゃんはうろたえ、
「いいえ――」
 その返答ぶりだって、近在の山奥から出て来た娘ではない。
「どこだい」
「はい」
 お雪ちゃんは返答に窮してしまったが、折よくそこへ来合わせた兵隊が一人、
「もはや、あの農兵の組合せが出来上りまして、いつにても調練の御検閲をお待ち申しております」
「ああ、あの農兵の調練か、この足で出向いて行く、御苦労御苦労」
 お雪ちゃんを見ていた新お代官は、この兵隊の復命を聞くと頷《うなず》いて、前へ歩み出しましたが、どうも横目でじろじろとこちらを見ていられるようで気味が悪い。
 それでもその場はそれだけで、何のこだわりもなく、市場は以前のような喧噪《けんそう》と雑沓《ざっとう》にかえり、お雪ちゃんは首尾よく手頃のお頭附《かしらつ》きを買って家へ帰りました。
 帰ってみると、何にするためか、碁盤を前にして、紙を畳んでは刻み、刻んでは畳んでいるところの竜之助を見ました。
 お雪ちゃんはいそいそとして、買い調えたものの料理にかかり、それより適当の時間に、やや早目な晩餐が出来上り、やがて睦《むつ》まじく膳を囲みました。
 お祝いが済むと、また緊張しきった気持で新しい仕事にとりかかる心持まで、充実しきっておりました。

 しかしお雪ちゃんが立って行くまもなく、例の公設市場に一つの難題が起ったことは、お雪ちゃんの知らない不祥事でした。
 それは、お代官から改まって三名ばかり役人が見えて、さいぜん、お代官が検分の砌《みぎ》り、この乾物屋の附近に立っていた在郷らしい女の子はいったいありゃ何者だ、どこの誰だか詮議《せんぎ》をして申し上げろということです。
 そこで、市場の上下が総寄合のように額を集めて、あれかこれかと詮議をしてみましたけれども、要領を得たようで得られないのは、本人はたしかに見たが、その在所が一向にわからないことです。小豆を買い、お頭附きを買い、その他、椎茸《しいたけ》、干瓢《かんぴょう》の類を買い込んで行ったことは間違いなくわかりましたけれども、どこの何者かどうしても分らないのです。ただ、言葉つきから言えば、決してこの山里から来た者ではなく、そうかといって、土地の者でも、上方風の者でもないことは明らかだし、その風采や、品格から言えば、なかなか山里や在郷の者ではないが、いでたちは、ざらにあるこの辺の山出しの娘にちがいなかった――ということだけは誰も一致するのですが、さてそれが何者で、どこから来たかということは一向わからない、それに、連れといっては一人も無く、たった一人で来たことも間違いないから、聞き合わせる手がかりもないことです。
 その旨をお代官の下役に答えると、下役の御機嫌の悪いこと。
 こういう意味で、あいまいに復命すれば、それはきっと隠し立てすることの意味のほかに取られるはずはない、もし身許がわかってお召出しを蒙《こうむ》った日には、及ぼすところの迷惑甚大なところから、身許不明ということにさえしておけば、まずは無事――という算段から出たとお代官に睨《にら》まれるにきまっている。お代官の威勢として、たった一人の山出しの娘が突留められないとあった日には、自分たちの首の問題でもある。そこで下役は自然市場の連中に辛く当らなければならない段取りになる。
「そういうあんぽんたんの行き方で、商売がなるか! 言葉尻をつかまえておいても方角はわかりそうなものだ。貴様たち、心を合せてかくまいだてするなら、その了見でええ、吾々にも了見がある、明朝までにきっと詮議をしてなにぶんの返事をせい」
 こういって市場連を威丈高に嚇《おど》し立てたものです。
 この嚇しは利《き》きます。今晩は寝ないでも市場の関係人全体は手をわけても、その身許を突きとめない限り市場組合員は所払いとなるか、欠所《けっしょ》となるか、そのことはわかりません。

         三十

 その夜の――暁方のことです。
 最初に宇津木兵馬が触書《ふれがき》を読んだ例の高札場のところ。
 歯の抜けたような枝ぶりの柳の大樹。
 がんりき[#「がんりき」に傍点]の百という野郎が、芝居気たっぷりで隠形《おんぎょう》の印を結んだ木蔭。
 あそこのところへ、また以前と同様な陣笠、打裂羽織《ぶっさきばおり》、御用提灯の一行が、東と西とから出合頭にかち合って、まず煙草を喫《の》みはじめました。
 東から五人、西から五人――かなりの仕出しが、舞台の中程、柳の下へずらりと御用提灯を置き並べ、その附近の石と材木とへ一同ほどよく腰を卸して、申し合わせたように煙草をのみ出したことは、この間の晩と今晩とに限ったことではなく、いつもここが臨時非常見廻役の会所になっていて、ここで落合ってから、東の奉行は西へ、西の奉行は東へ、肩代りをして一巡した後にお役目が済んで、おのおのの塒《ねぐら》へ帰る順序ですから
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