千里の道を遠しとせざる我輩の振舞は、なるほど君たちが見れば、閑人《ひまじん》の閑つぶしとして、この上もない馬鹿野郎に見えるだろうけれども、そこは縁なき衆生《しゅじょう》だ――縁なき衆生といえども、度するだけは度するの慈悲がなければならぬと思って、つい一人でおしゃべりをしてしまった――慈悲といえば事のついでにもう一つ、およそ彫刻でも、絵画でも、日本に於て最大級の産物は、ことごとく仏教と交渉を持たぬものはないけれども、永徳はその仏教からも超脱している。この点も、まさにその特色の一つで、秀吉を古今第一等の日本の英雄とすれば、同時に日本を代表する古今独歩の巨人としての画人、永徳を忘れてはならない――そういったような次第で、拙者はこれから松島の観瀾亭を見に行こうとするのだ」

         二十六

 その翌朝、田山白雲と、雲井なにがし[#「なにがし」に傍点]とは結束して、その家を辞して出でました。
 白雲が急がぬようで急ぐ旅であり、この青年壮士もまた、落着いてここに逗留《とうりゅう》している身ではないらしい。
 雲井なにがし[#「なにがし」に傍点]は、近き将来に日本の勢力が二分することを信じている。それは痩《や》せても枯れても従来の徳川家が一方の勢力で、他の一方の勢力の中心は、薩摩と、長州である。ことに薩摩がいけない。長州は国を賭《と》して反幕の主動者となっているが、そこへ行くと薩摩は、国が遠いだけに、長州よりも隠身《いんしん》の術が利《き》く。長州は幾度か国を危うくしたが、薩摩はそんな危急に瀕したことは一度もなく、そうして威圧のきくことは無類である。この両藩が中心となって末勢劣弱の徳川家を、有らん限りの横暴と、陰険とを以て、いじめている――と、雲井なにがし[#「なにがし」に傍点]は誰もが見るように見ている。
 ところで、その徳川家の、征夷大将軍の威力も明らかに落ち目で、盛衰消長はぜひなしとするも、それにしても歯痒《はがゆ》すぎる――と、雲井なにがし[#「なにがし」に傍点]は自分のことのように憤慨する。
 徳川氏、政権をとること三百年、士を養うこと八万騎、今日この頃になって、ついに一人の血性《けっせい》ある男子を見ることができない。雲井なにがし[#「なにがし」に傍点]はそれを切歯《せっし》している。その点から見ると、明らかに徳川方の贔屓《ひいき》であって、薩長の横暴陰険を憎んでいる。ただ、徳川に贔屓するのが、いわゆる、佐幕論者とは、全く調子も、毛色も、変ったものであることを認めないわけにはゆかない。この男は徳川の恩顧を蒙《こうむ》り、或いはその知遇に感じ、以てその社稷《しゃしょく》を重しとするのではない、薩長が憎いから、徳川に同情するのである。
 薩賊、長奸《ちょうかん》というような言葉を絶えず口にする。とにもかくにも、薩長あたりが中心となって、末勢の徳川を圧迫する、そこで天下は二分する、二分して関ヶ原以前の状態にもどる、秀吉と信長以前の状態に一度逆転すると見ている。やがてまた群雄割拠の世になるかどうか知れないが、東西二大勢力が出来て、当分はこれが相争うのだ。その時の用意として、自分は、東北の海岸の地形や要害を見て廻っている。
 というような議論が風発するのを、田山白雲が聞いていると、こいつがいよいよ容易ならぬ男であることを感ずる。
 勤王とか、佐幕とかいう名目だけでは片づけられない、米沢というだけに、北方に嵎《ぐう》を負うて信長を畏怖《いふ》させていた上杉謙信の血が、多少ともこの男の脈管に流れているのではないか、とさえ思わせられる。
 白雲も、当世流行の勤王家や、佐幕党に、かなり眉唾物《まゆつばもの》の多いことを知っている。
 藩としてもずいぶんあやふやものの多いことを知っている。
 たとえば、ある藩では、あらかじめ藩中へ、勤王と、佐幕とのなれあい勢力を二つこしらえて置いて、万一天下が勤王方に帰した時は、藩中の勤王党の方を押立てて、弊藩《へいはん》はかくの如く最初から勤王党でござると言い、もしまた当分徳川で落着くことになれば、当藩はなんじょう無二の幕府方、その忠義心かくの如し……と、おのおのこしらえ置きの覚え書を出してお目にかけることにする。どうしても、染替えのならぬ旗色のものは別、そうでない限り、親藩といえども、態度の覚束ないこと、それぞれの志士浪士、皆それぞれの後ろだてをたよって大言壮語する。
 ひとりこの雲井なにがし[#「なにがし」に傍点]は悍然明白《かんぜんめいはく》に、薩摩倒さざるべからずと主張する。そうして、ただ一人でもそれを実行する意気組みを持っている。とにかくその意気だけはほんとうに怖るべき意気だ、これほどの気骨あるのが徳川旗下にいたら、と思うよりは、やっぱり上杉謙信や、直江山城守が、この男の口を借りて、若干を言
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