大菩薩峠
勿来の巻
中里介山

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)団扇座《うちわざ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)海樹|簫索《せうさく》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「口+下」、25−3]
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         一

 駒井甚三郎は清澄の茂太郎の天才を、科学的に導いてやろうとの意図は持っていませんけれど、その教育法は、おのずからそうなって行くのです。
 駒井は研究の傍ら、茂太郎を引きつけて置いて、これに数の観念を与えようとします。
 天文を見る時は、暗記的に、星座や緯度を教え、航海術に及ぶ時は、星を標準としての方位を教え込もうとするのを常とします。
 茂太郎は教えられたところをよく覚えることは覚えますけれども、駒井の期するところのように、その頭が、数と、理で練りきれないのは、不思議と思うばかりでした。
 たとえば、星座を数える方便として、支那の二十八宿だの、西洋のオリオンだの、アンドロメダスだのというのを、形状と、歴史を以て指し示すと、その位置よりは、伝説としての空想の方に、頭を取られてしまいます。
 駒井に教え込まれて、茂太郎の星を見る想像力が、グッと別なものになりました。
 彼はすでに、古人によって定められた星座の形に満足しないで、なおなおさまざまのものを見るようです。星と星との距離と、連絡をたどって、古人が定めた以外の、さまざまの現象を描いてみることを覚えました。
 そうして、科学的に教えられた星座のほかに、自分の頭で、それぞれの星座を組み立て、それに命名をまで試みているようです。
 その命名も、たとえば、拍子木座と言い、団扇座《うちわざ》と言い、人形座と言い、大福帳と言い、両国橋と言い――そうして、毎夜毎夜、その独特の頭を以て、星座を眺めては、即興的に出鱈目《でたらめ》の歌をうたうことは少しも改まりませんから、駒井が呆《あき》れてしまいました。
 せっかくこの即興的の出鱈目を、科学的に矯正《きょうせい》してやろうとしているあとから、教えられた知識を土台にして、また空想の翼を伸ばすのだからやりきれません。
 しまいには、ただ、自分が天体を観察している時、望遠鏡にさわることを恐れて、近くで足踏みをすることだけを禁じて、出鱈目の歌には干渉をやめました。
 今や、茂太郎は、星を一層深く見ることを覚え、そうして眺めた星の一つ一つを点画《てんかく》として、自分としての空想を描き出すことで、毎夜の尽くることなき楽しみを覚えました。
 つまり、今まで、禽獣虫魚を友としていたと同じ心で、日月星辰を友とする気になってしまいました。おのおのの星が、これでみんな異った色と光を持ち、異った大きさと距離をもって、おのおの個性的にかがやきつつ、それをながめている自分を招いていることを見ると、嬉しくてたまりません。
 彼は星を見るのでなく、星と遊ぶ心です。
 従って、星の中の一つ、月というものを見る見方も全く変りました。今までは、月というものは、星の中の最も大きなものと見ていたのが、今は、星の中の、いちばん近いものだと見るようになりました。
 手をさし延べれば届くのが、あの月だ。星の中で、いちばん近いから、いちばん大きく見えるので、いちばん大きいから、それで星の王というわけではない。
 悪獣毒蛇でも、馴染《なじ》めばなじめるのだから、日月星辰にも、近寄ろうとすれば近寄れない限りはないと想いつつあります。
 太陽はあの通り赫々《かくかく》たるものだから、狎《な》れるわけにはゆかないが、月はあの通り涼しいではないか、星はあの通りクルクルと舞っているではないか、毎夜毎夜、人間と遊びたがって、大空にやさしく出て来るではないか。
 茂太郎は、今は、天空を仰いで、星のまたたきと、月のさやけさとをながめて、戯れ遊ぶことだけでは我慢ができなくなりました。
 手を取って遊ばなければならぬ、星があの通り招いているのだから、こっちも行ってやらないのは嘘だ! と、こんな空想から、その星の中の最も近くして最も明るい、あの月に乗って、それから星に遊ぶ――こんな空想のために、月が出ると矢も楯もたまらず、月をめがけてまっしぐらに馳《は》せ出すのを常とします。

         二

 茂太郎は、月に乗り得ないとは信じていない。こうして、走りかかれば、早晩、月に抱きつくことができると信じきっているが――いくら走っても、月の方へ走ると海になってしまう。海は深くして広いことを知っている。
 月には至り得ることを信ずるけれども、海は越えられないということを知っている。
 そうして、月をめがけて一散に走って、海に至ると
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