はじめて、茂太郎が呆然《ぼうぜん》として自失してしまいます――今宵もまた、海に妨げられて、月に至ることを得ずして浜辺を帰る清澄の茂太郎は、
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遼東九月、蘆葉《ろえふ》断つ
遼東の小児、蘆管を採る
可憐《あはれむべし》新管、清にして且つ悲なること
一曲、風翻りて海頭に満つ
海樹|簫索《せうさく》、天|霜《しも》を降らす
管声|寥亮《れうりやう》、月|蒼々《さうさう》
白狼河北、秋恨《しうこん》に堪へ
玄兎城南、皆《みな》断腸――
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この詩を、高らかに吟じはじめました。
これは出鱈目《でたらめ》でもなく、即興の反芻《はんすう》でもなく、岑参《しんしん》の詩を、淡窓《たんそう》の調べもて、正格に吟じ出でたものであります。そうして、この詩句と吟調とが、田山白雲によって、茂太郎に教えられているというよりは、白雲が興に乗じて吟じ出でたのを、茂太郎が、その音楽的天才の脳盤の中に、早くも取込んでしまったそのレコードが、偶然、このところに於て、廻転し出したと見ればよいのです。
ですから、この詩と、吟とには、批点の打ちようがありません。もし間違っているとすれば、それはレコードの誤りで、茂太郎には何の罪もないことでした。
彼はこの唐詩を高らかに吟じつつ、海岸を走り戻りましたが、詩が尽きて、道は尽きず、次にうたうべきものが、未《いま》だ唇頭に上らざるが故に、その間《かん》、沈黙にして走ること約二丁にして、たちまち、その病が潮の如くこみ上げて来ました。
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皆さん――
元来、私は
エロイカの名称によって
知られている
ベートーベンの
第三シムフォニーが
大好きであります……
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と、海の方へ真向きに向って、半ばは独語の如く、半ばは演説の如く叫び出したのが、尋常の声ではありません。
無論、誰も聞く人はない、また聞かせようと思って、呼びかけたものではないのです。
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第八シムフォニーよりも
第五シムフォニーよりも
いわんや非音楽的な
あの第九シムフォニーよりも
この第三と第七とが
最も好きであります
そこで、私は
幾度となく、
この曲を聴いたり
或いはその解剖を
している間に
昔からエロイカに就《つい》て
論ぜられて来た
このシムフォニー特有の
神秘――換言すれば
謎に対して
人並みに気になり出して
来た次第であります……
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出鱈目《でたらめ》であるが、その声がすみ、おのずから調子がととのい、それに海の波の至って静かな夕べでしたから、出鱈目の散文が、やはり詩のようになって聞えました。
出鱈目とはいえ、即興とは申せ、これはまた途方もない。しかし、この少年は、いつか一度耳に触れたことは、脳によって消化されても、されなくっても、時に随って、必ず反芻的《はんすうてき》に流れ出して、咽喉《のど》を伝わって空気に触れしめねばやまない特有の天才を備えているのですから、いつ、何を言い出すか、それは全く予測を許されないのですけれども、いかに天才といえども、無から有を歌い出すことはできますまい。
三
清澄の茂太郎はこうして竜燈の松のそばまで来た時、突如として脱兎《だっと》の如く走り出しました。
いつもならば、馴染《なじみ》の竜燈の松に腰うちかけて、即興詩の一つもあるべきところを、今宵はその松の木の前を脱兎の如く、全速力で、眼をつぶって走り去るのは、何か怖ろしいものを感じたからでしょう。怖ろしいものといっても、この子は、すでに世間並みが怖れるところの猛獣毒蛇をさえ怖れないし、日月星辰をも友達扱いにしようとするほどのイカモノですから、特にそんなに怖れるものは無いはずだが――さては、いつぞやお杉の女《あま》ッ児《こ》をおびやかした海竜でも、本当に出現したのかな。
ところが、その海竜は、この子には恐怖の対象ではなくして、風説の製造元であったのだから、海竜もまた親類であるべきはず。
では、何を怖れたか。つまり、この子の怖れるものは人間のほかにはないのです。人間につかまえられて、人気者に供される以上の恐怖は、この子には無い。
甲州の上野原でも、こんなように無邪気になっているところを、不意にがんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵なるならず[#「ならず」に傍点]者につかまって、いやおうなしに江戸へ拉《らっ》し去られてしまったではないか。幸い、江戸に於て田山白雲を見出して、その背に負われて、この房州へ連れられて来たが、怖れるところのものは、右様の人間のほかには、この少年の前にはありません。
多分、そんなような、胡散《うさん》な者を、たった今眼前に於て、感得したればこそ、彼はかくも一目散《いちもくさん》に走り過ぎたもの
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