と思われる。
 そうして、夢中に、ものの二町ほども走ったが、幸いに、何物も後を追い来《きた》る気色《けしき》がありませんから、そこで、安全圏内に入ったつもりで、歩調をゆるめてしまいました。ここへ来ると、行手に遠見の番所の火影《ほかげ》がボンヤリと見えている。万一の場合、大きな声を出しさえすれば、誰か番所から駈けつけてくれる。それでも間に合わない時は、殿様のお部屋に鉄砲がある――そんなような安心で、茂太郎はまた歌の人となりました。
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チーカロンドン、ツアン
パッカロンドン、ツアン
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と、口拍子を歩調に合わせて、
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姐在房中《ツウザイワンチョン》
繍※[#「口+下」、25−3]繍花鞋※[#「口+下」、25−3]《シウリアンシウファヤイヤア》
忽聴門外《フラテンメンワイ》
算命先生《サンミンスヘンスエン》
叫了一声《キャウリャウイシン》
叫了一声《キャウリャウイシン》
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と勢いよく唱え出して、
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トデヤウ、パンテン
スヘンスエン
ニイツインゾオヤア
ヌネン、バズウ
ゴテ、スヘンスエン
ニイ、ツエテンジヤ
ニイ、ツエテンジヤ
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 茂太郎としては出鱈目《でたらめ》ですけれども、これは立派に支那の端唄《はうた》になっていました。
 こんな出鱈目を器量いっぱいに歌いつづけた時に、茂太郎は行手の右の方の、こんもりと小高い丘の上に真黒に盛り上った森の中から、ポーッと火の手の上るのを見ました。
 それは、狼煙《のろし》のように――風が無いものですから、思うさま高く伸びきって、のんのんと紅い色を天に向って流し出したのです。
「あれ、天神山で火が燃えた」
 時ならぬ火である。一時は火事かと思ったが、火事ではない。お祭礼《まつり》でもないはずなのに、誰が、何の必要あって、あんなに火を燃やし出した?
 茂太郎は、思いがけなく火の燃え出したのを、非常時として見るよりは、その火の色が特別に赤い色をしていることに、美しさを感じて、一時は見とれたように立ち尽しました。
 火は、いよいよ盛んになって、やがてパチパチと竹のハネル音まで聞え出した時、茂太郎の唇の色が変って、
「あ、そうだ、マドロス君が焼き殺されてるんだぜ、あの火は……」

         四

 そこで、茂太郎は、声も、身体《からだ》も、震え上ってしまいました。
「マドロスが、焼かれているのかも知れない、たしかにそうだ、そんなような気がしてならない、そうだとすれば大変だ!」
 ほとんど為《な》さん術《すべ》を知らないほどに動顛《どうてん》したらしい。
 そこで、すっかり、空想も、幻想も、打ちこわされて、失神に近いほどの戦慄《せんりつ》と、恐怖を、如何《いかん》ともすることができないらしい。
 というのは、今、あのマドロスが、村民の無頼漢の手に捕われている、そうして天神山へ連れて行かれて、今日明日のうちに焼き殺してしまうが、どうだいという、かけ合いがあったとか、なかったとか聞いていたが、それが本当であったか。
 昨今、駒井の殿様を中心とする、この海辺の世界では、造船は着々と進行する、動力の研究までが目鼻がついてくる、働く人はみな殿様に心服している、やがて船が完成すれば、それに乗って行くべき人の人選も、ようやく定まりつつあるの時に、その周囲から、ようやく圧迫が出て来たことの形勢が、うすうすこの茂太郎にもわかっているのでした。
 最初は、充分の好意と、好奇とを持って、駒井の新事業に便宜を計ってくれた附近の人が、このごろになって、険《けわ》しい見方をするようになったのは、たしかに黒幕があるのだ、と駒井の殿様も言った、それをお嬢さんが、またよく註釈して言って聞かせた、
「茂ちゃん、もう、昼間でも、うっかり外へ出るのをおよしよ、あぶないから。この近所の人は、漁師や、お百姓さんで、何も知らないけれど、うしろに黒幕があって、殿様の仕事を邪魔してやろうという空気が濃くなってきましたから、どうも今までのように安心しちゃいられないのよ。黒幕が、ばくち打[#「ばくち打」に傍点]を使ったり、ならず[#「ならず」に傍点]者をけし[#「けし」に傍点]かけたりして、殿様の仕事を妨害するんですからね」
「黒幕というのは何です、お嬢さん」
「それは土地の代官だとか、神主、坊さん、儒者といったような人たちだろうと思うんです」
「それが、ナゼ妨害するんだろう」
「つまり、この殿様のなさることが、わからないんですね。どうも、あれは、毛唐《けとう》の廻し者で、毛唐が黒船で日本を攻めて来る時に、こっちから裏切りをするために、ああして、軍艦や大砲をこしらえているんだ……なんて、けしかけているんですとさ」
「黒船
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