音に聞く、勿来の関の古関の址。
 誰が書いて、いつ立てたか、「勿来古関之址」と、風雨に曝《さら》された木柱の文字。それを囲んで巨大なる松の木が五六本、おのずからなる離合の配置おもしろく生い立っている。
 桜はと眼をつけて見たが、あちらに半ば枯れた大木と、あとから植えたものらしい若木が十本ばかり、半ば紅葉して見えただけのもの。さて、東には海を見晴らし、西には常磐《じょうばん》の連山。海は遠く、山は近く、低い雲に圧《お》され気味な、その日の、その時刻。
 古関の木柱の前に立ちつくして、雲霧と海山とをながめ渡して、白雲はホッと息をつきました。
 これは疲労を感じたから、ホッと息をついたのではない。夕暮の雲煙が、いとど自分の旅情を圧迫して、やはり、旅情というものを、いよいよおさえ難きものにしたからでしょう。
「遠くも来つるものかな」
 彼はこういう表情をして、勿来《なこそ》の古関の上に、往を感じ、来を懐《おも》うて、いわゆる※[#「彳+低のつくり」、第3水準1−84−31]徊顧望《ていかいこぼう》の念に堪えやらぬもののようです。
 実際、遠く来てしまったな――という感じは、その旅中の気分の中に充ち満ちているだけに、古来の「勿来」の文字が、大手をひろげて、なにか彼に向って、前路の暗示を与えてもいるもののようです。
「遠くも来つるものかな」
 暗雲低く垂れて、呼べば答えんとするもののほかに、その感懐を訴うべき、人煙は無い。
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吹く風ならぬ白雪に
勿来の関は埋もれて
萩のうら葉もうら淋《さび》し
[#ここで字下げ終わり]
 白雲はこういって、微吟しながら、その豪快なる胸臆のうちに、無限の哀愁を吸引し来《きた》ることにたえないらしい。
 それにしても、「勿来」の関は、王朝以前の勿来の関で、近代の勿来の関ではないはずです。
 たとえ、田山白雲ほどの男でも、王朝以前の時に当って、はるばる都を出でて、東路《あずまじ》の道の果てなる常陸帯《ひたちおび》をたぐりつくして、さてこれより北は胡沙《こさ》吹くところ、瘴癘《しょうれい》の気あって人を傷《いた》ましめるが故に来る勿《なか》れの標示を見て、我ながら「遠くも来つるものかな」と傷心の感懐を洩らすのは、無理とは言えないだろうが、黒船の海を行く今日の世では、もはや「勿来」は名残《なご》りだけのものです。
 江戸が天下の政治の中心地となってしまい、常陸にはその宗藩が置かれ、その常陸を僅か一歩抜け出したところの「勿来」の関。これから奥にはまだ、黄金《こがね》花咲くといわれるところに、伊達《だて》を誇る都もあるし、蝦夷松前《えぞまつまえ》といっても、名もなき漁船商船でさえが、常路の如く往来をしているこの際に、白雲ほどの豪傑が、ホッと息をついて、「遠くも来つるものかな」は女々《めめ》しいではないか。
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吹く風ならぬ白雪に
勿来の関は埋もれて
萩のうら葉もうら淋し
[#ここで字下げ終わり]
 但し、ここで白雲の口頭に上った微吟の歌には、なんらの意義がない。さし当り口を突いて出て来た調子のままに、口あたりよき雅言が、詠歎的に歌調をなしたまでのことで、つまり多少とも、清澄の茂太郎にかぶれたものと見ておけばよい。
 立ち尽して、白雲はただ蒼茫《そうぼう》たる行手の方のみを、暫く見つめていました。
「遠くも来つるものかな」
 やはりその旅情を、如何《いかん》ともすることができないらしい。

         十三

 西に眼を転じて、自分は、安房《あわ》の国、洲崎浜の駒井甚三郎の食客となっている身で、それに相当の暇《いとま》を告げて、立ち出でて来た旅中の旅路であることを憶《おも》いました。
 駒井に暇を告げる時は、香取鹿島から、水郷にしばしの放浪を試み、数日にして帰るべきを約して出て来た身なのです。それが、鹿島の浦で興をそそられて、奥州松島を志し、「勿来」の関まで来てしまったことが、我ながら「遠くも来つるものかな」の自省を促さざるを得ないものとなったのでしょう。
 更に東へ眼を転ずると、そこは涯《かぎ》りのない海です。
 海はいつも同じようなことを教える。渺《びょう》たる滄海《そうかい》の一粟《いちぞく》、わが生の須臾《しゅゆ》なるを悲しみ、と古人は歌うが、わが生を悲しましむることに於ては、海よりも山だと白雲は想う。海は無限を教えて及びなきことを囁《ささや》く。人間の生涯を海洋へ持って行って比べることは、比較級が空漠に過ぎるようだ。
 左に磐城《いわき》の連山が並ぶ、その上に断雲が低く迷う――多くの場合、人間は海よりも山を見て、人生を悲しみたくなる。それは特に山に没入する時よりは、山を遠くながめる時に於て、山というものの悠久性が、海というようなものの空漠性よりは、遥かに人間の比
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