較級に親しみが深いからでしょう。海を見ても泣けない時に、かえって山を見て泣かねばならぬことがあります。
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頭《こうべ》をあげて山川《さんせん》を見
頭を低《た》れて故郷を思う
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 このたびの旅行に於て、海は白雲のために友であり、師であって、絶えずこれと共に歌い、これに励まされ来《きた》ったようですが、山がかえってこの男を、人間の悲哀に向って誘い込むらしい。
 磐城の連山の雲霧の彼方《かなた》に、安達ヶ原がある、陸奥《みちのく》のしのぶもじずりがある、白河の関がある、北海の波に近く念珠《ねず》ヶ関《せき》もなければならぬ。
 それを西北に廻れば、当然、那須、塩原、二荒《ふたら》の山々でなければならぬ。そうして、やがて上州の山河……
「遠くも来つるものかな」と感傷のため息をついたのは、白雲もまだ人間並みに故郷というものを思い出でたからでしょう。おれにも、これで妻子というものがあったのだ、その妻子にも、幾年月の苦労をさせたものだな、という人間感が、犇《ひし》と胸に迫ったから、それが、白雲の面《かお》に、見るに忍びぬ、一脈の傷心の現われを隠すことができなかったものに相違ない。
 事実、この男には妻子があったのです。その妻子を故郷に預けて来ていることを、「勿来」まで来て、はじめて、思い出すのはいいが、思い出される妻子というものの身になっても辛かろう。
 斯様《かよう》な人間に附属せしめられた妻子というものこそは、全く気の毒の至りです。その気の毒な運命のほどは、嘗《な》めさせられている当の妻子たちは無論のことだが、嘗めさせつつ我を忘れている当人も、他所目《よそめ》ほどには楽でもあるまい、妻子には済むまい――
 自己の豪興半ばにして、白雲は、ふいとこの気分のために、心を傷《いた》めぬということはないのです。
 旅に出ても、若干の収入さえありさえすれば、自分は食わなくとも、それを妻子に仕送る心がけだけは忘れなかったものだ。幸いにして、この頃中は、あの山かん[#「かん」に傍点]な女興行師につかまって、あの女のために思わぬ大金を恵まれた。それをそっくり故郷の妻子に届けてあるから、あれで当分の生活にはこと欠くまい――という安心が、一つは白雲を駆ってそれからそれと、陸奥の旅までも突進させたのですが、もう一つの動力は、まさに「狩野永徳」のさせる業でなければならぬ。
 陸前の松島の観瀾亭《かんらんてい》に、伊達正宗が太閤から貰って、もたらして来た永徳の大作があるという噂《うわさ》を聞いたことが、一気にそこまで白雲を突進させようとして、ここ勿来の古関のあとに立たしめた本当の道筋でありました。

         十四

 こうして、鹿島洋《かしまなだ》で得た豪興が、一気に田山白雲を、ここまで突進させてしまったけれどここへ来てみると右様の始末で、「勿来」の文字が、帰るに如《し》かずを教えることしきりです。
 駒井殿も心配しているだろう、妻子にも逢いたくなった――ガラにもなく、この帰心のために田山白雲の心が傷みました。
 松島には狩野永徳が待っている――扶桑《ふそう》第一とうたわれた、その松島の風景的地位というものも見定めておきたいし、黄金花さくという陸奥の風物は一として、わが画嚢《がのう》に従来なかった土産物《みやげもの》を以て充たしめざるはないに相違ない――が、前途、路は遥かだ。
「帰るに如かず」の心が、白雲の逸《はや》る心を乗越え乗越えして、堪え難いものとするとともにここまで来て……引返すということの意気地のなさを、自分ながら後ろめたいものにもする。そこで、結局、行くべきものか、帰るべきものか、白雲ほどの男が、※[#「彳+低のつくり」、第3水準1−84−31]徊《ていかい》顧望して、全く踏切《ふんぎ》りがつかない始末です。
 そこへ、峠の彼方から――峠というほどではないが、関の彼方から、うたをうたって来るものがある。その歌は、何だか知らないが、うら若い娘の声で、人の無いのを見て、ひとり興に乗ってうたう、この辺ありきたりの鄙唄《ひなうた》であるらしい。
「姉さん、おい姉さん」
 松の間から見えた、里の乙女と言いつべき若い娘。ぽちゃぽちゃした面《かお》の、手拭をかぶって背には籠《かご》を背負っていたのが、峠というほどでないにしても、上下一里はある山路の中を、いい気になって、鄙唄をうたいながら来たのを、こちらから呼び止めたのは、雲をつく田山白雲でしたから、
「え!」
 その当座、右の姉さんは、ぴったりと唄をやめて、棒立ちになり、同時にワナワナとふるえ出したもののようです。
「姉さん――」
 娘は動きません。白雲はこちらで手招きをする。
 娘は動かない。
 白雲は、なお手招きをする。
 娘はジリジリと足ずりをする。し
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