中へお連れ下されば、こんな有難いことはござりませぬ。だが御当地をお立ちになって、どちらへ船をお廻しになりますのでございます」
十一
「この船は、いかなる大洋をも乗りきれるつもりだから、ひとたび出帆した以上は、どこへ行こうとも勝手だが、それには燃料と、食物の関係もあるから、今のところはそう遠くまでは行けない、わしの考えでは、当分、近くのしかるべきところへ落着けて、なお修理と改良を加えたいのだ……その候補地が二つある。一つは駿河《するが》の国の清水港で、一つは陸前の石巻《いしのまき》の港だが、清水港はよいところだが、今のところ、目に立ち易《やす》い心配がある、その点では陸前の石巻がよかろうと思う。そこで、昨晩いろいろ考えて、それにきめてしまったようなものだ」
と駒井甚三郎が、行く先を説明して聞かせた上に、かの地には、曾《かつ》て、高島門下で自分と同窓の、木野徳助というものがあって、土地で有数な船乗りであり、よく自分を諒解していてくれる、それに土地も辺鄙《へんぴ》だから、この辺よりはなお一層人目に立つことが少ない、もしもの場合には、一同が船中生活をしていて、外へさえ出なければ危険のありそうなはずがない、万一危険がありとすれば、帆をかけて海に避けるまでのことだ……ということを駒井が、七兵衛の得心のゆくまで説いて聞かせました。
駒井としては、その辺に十分の自信を持っていて、帆前の用意まで怠《おこた》りはないのだが、それにしても心にかかるのは燃料のことで、遠洋の航海をするのに、その燃料の貯蔵と、補給とには、念に念を入れねばならぬと考えているのです。
しかし、それは石巻へ着いてからの研究でも間に合う。それと、もう一つは、結局の目的地のこと……これはきまったような、きまらないような現在ではあるが、きめて置いて、かえって失望するようなことはないか。きめないで置いて、かえって理想に近い新陸地を発見し、そこに水入らずの一王国か、或いは民主国か知れないが、そういうものの種を蒔《ま》いてみることは、また男児の快心事ではないか。
この点に於て、駒井の近況は、必ずしも冷静な科学者でも、緻密《ちみつ》な建造家でもなく、一種のロビンソン的空想家となっていないではない。そこでかなり正確な数理と、着実とを以て、諄々《じゅんじゅん》と話しつつあるにかかわらず、七兵衛の頭におのずから熱を伝え、実際的に信頼のできる根拠があるだけに、七兵衛のロマン味をも刺戟すること一方ではないと見え、老巧な七兵衛が、海を説かれて、少年のような興味を植えつけられて、勇みをなした有様が、瞭々としてわかります。
この話がきまると七兵衛は、早速旅装をととのえて洲崎を出発しましたが、その馬力のかかった足許の躍《おど》り方までが、いつもより違った若やかさを感ずるのは、不思議と思われるばかりです。
今までの七兵衛は、千里を突破する早い足を持っていたのには相違ないが、そのゆくては、いつでも真暗でした。こうして乗りかけるところは結局、三尺高い木の上に過ぎない。いかに早く走ったからとて、いつかは、自分はそこまで追いつめられて、いやおうなしに、その台の上へ、この首をのっけてしまわねばならぬ。
いつ出でても、ゆくては夕暮である。
どんなキラキラした天日も、七兵衛が走りながら仰ぐと暗くなって見え、自分はそれを観念しつつ、幼少より今日に至るまで、明るい世界を全く暗く歩み、生涯、この暗黒から救われる由なき運命のほどを、自ら哀れみもし、自らあきらめもしていたのが――時として、旅の半ばに、前後をのぞみ見て、※[#「さんずい+玄」、第3水準1−86−62]然《げんぜん》として流るる涙を払ったこともないではなかったのです。
子供の時分、名主様に舌を捲かせ、貴様は日吉丸になるか、石川五右衛門になるかと呆《あき》れさせたことのある自分も、よく通れば、日吉丸ほどでなくとも、五右衛門の出来そこないにはならなかったに相違ない……それがかくして今、こうして暗く歩んでいる。
それを考えて、七兵衛のいただく天地に、かつて明るいことがなかったのですが、今日は、全く別な世界を歩みはじめた気持です。
この世界には、この足を必要としないで歩み得る世界がある。それは海だ!
そこは、自分の特長は全く無用視されるが、自分の身に安心が予約されるではないか。
船というものは全く別の世界になり得る!
十二
田山白雲が勿来《なこそ》の関《せき》に着いたのは、黄昏時《たそがれどき》でありました。
勿来の関を見てから、小名浜《おなはま》で泊るつもりで、平潟《ひらかた》の町を出て、九面《ここつら》から僅かの登りをのぼって、古関《こせき》のあとへ立って見ると、白雲は旅情おさえがたきものがあります。
前へ
次へ
全81ページ中9ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング