ず、また壁へ馬を乗りかけるのは知れている。そうなった時分に、また同じような荒《すさ》みきった生活が繰返される。
 いやになっちまうな……神尾主膳は乗物の中で、こんなことを考えると、いよいよいやになり、引返そう、屋敷へ引返して、字を書いてでもいた方がましだ、字に飽きたら、子供をおもちゃにして遊ぶことだ、毛唐屋敷が何だ――こんなことを考えながら、額に滲《にじ》む汗のところへ手を当ててみると、ザクリとその指先に触れるものがある。それは、古屋敷の中で、草に隠れた古井戸へ片足を突込んだように、主膳をして一種の不安と、今までとは違った不快な思いで、胸をカッとさせたものは、例の額のあの古傷です。
 こいつが――そもそもこの古傷が、こうも自分を不愉快なものにしてしまったのだ。銭がいやなのではない、遊びが面白くないのではない、みんなこの額の刻印が、自分というものを刑余の入墨者《いれずみもの》同様な、卑屈な日蔭者にしてしまったのだ。
 ちぇっ!
 こいつが――この傷が、これがあるおかげで、この生れもつかない眼が一つ殖えたおかげで、おれの半生涯が、すっかり暗くなってしまった。

         八十一

 主膳は、むらむらとして、その時に、かの弁信法師なる者に対しての渾身《こんしん》の憎悪《ぞうお》を、如何ともすることができません。
 あいつさえ無ければ、あのこましゃくれた、お喋《しゃべ》りの坊主の、ロクでなしさえ無ければ、こんなことにはならなかったのだ、自分の面体《めんてい》に生れもつかぬ刻印を打ち込んで、入墨者同様の身にしてしまったのは、あのこましゃくれた、お喋りの小坊主の為せる業ではないか――主膳がその時のことを思い出して怒ると、額の真中の牡丹餅大の古傷が、パックリ口をあいて、火炎を吐くもののようです。
 全く、小坊主のために、自分はこんなにされてしまった。耳切りと入墨と、二つを兼ねたような処刑を、あのお喋り坊主から受けて、自分は今日人前へ出されぬ面《かお》にされてしまった。
 憎い小坊主、天地間に憎いとも憎い小坊主め――主膳は、キリキリと歯がみをしてその瞬間には、自分というものの過去は、すっかり抛却され、一にも、二にも、憎いものに向って、その骨髄に食い入る憎悪心が燃え立ちます。
 一にも弁信、二にも弁信、あいつがこのおれの面を、世間へ面向けのできないようにしてしまったのだ。思い一度《ひとたび》ここに至ると、酔わない時でも、酒乱の時と同様に、食い入る無念さに、心身が悩乱し狂います。
 事実は、弁信から暴力をもって、そうされたわけでもなんでもない。弁信もまた、彼に見せしめの入墨を与えてやろうとて、そうしたわけではなし、かえって神尾の暴虐の手から遁《のが》れようとする途端に、無心のハネ釣瓶《つるべ》があって、主膳の額から、あれだけの肉を剥ぎ取って行ったもので、無論、主膳自身の暴虐が、そういうハズミを食わせるように出来ていた。
 それこそ、当然の刑罰が、ハネ釣瓶の手を借りて、痛快に行われたものに過ぎないから、怨《うら》むべくば、井戸の釣瓶を怨まねばならないはずなのに、主膳は、その事なく、弁信を極度まで憎み、あの時完全にあのお喋り坊主の息の根をとめてしまうまで見届けなかったことを、親の仇を取り残したほどに、残念に思う。
 今も、乗物の中で、それを思い出した主膳は、もう矢も楯もたまりません。
「駕籠屋《かごや》、もういいから、根岸へ戻せ、築地へ行くのは止めだ、根岸へ戻せ、戻せ」
 主膳のこう言った言葉と出逢頭《であいがしら》に、外では駕籠屋が、
「旦那様、曝《さら》しがございますが、ごらんになっちゃいかがですか」
「え、何?」
「曝しでございます」
 主膳の癇癪《かんしゃく》と、駕籠屋の注告とが、ぶっつかって、ちょっと火花を散らしたが、駕籠屋の注告に制せられて、
「曝しとは何だ」
「ごらんなさいまし」
 駕籠屋が外から垂《たれ》を上げたものです。今まで自分だけで心頭をいきり立たせていたものだから、外面を乗物がどううろついて来たか、その辺はいっこう、耳にも入らなかったのだが、そう言われた瞬間に、人通りの劇《はげ》しい音が主膳の耳に入り、つづいて、外からはねられた垂の外を見ると、そこに、「曝し物」
 うむ、ははあ、いつのまに、日本橋まで来ていたのか。
 ここは日本橋だ、しかも日本橋の東の空地だ、なるほど、曝し場に違いない。小屋があって、筵《むしろ》がしいてあって、後ろに杭《くい》があって、その前にズラリと一連の曝し物がある。
 曝し物は、官がわざわざ曝して、衆人の見るものに供するのだから、ただでさえ、物見高い江戸の、しかも、日本橋の辻に官設してあるのだから、見まいとしても、それを見ないで通ることを許されないようになっている。駕籠屋は、乗主《のりぬし》に対
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