ッと抱きあげてしまいました。
「いや、いや、与八さんと一緒でなければ、どこへも行かない」
抱かれた七兵衛に武者ぶりついて、ついに、七兵衛の面《かお》を平手でピシャピシャと打ちながら、泣き叫ぶ体《てい》は、全く今までに見ないことでした。
「では、与八さんのところへ連れて行ってやろう、さあ、こっちへこう戻るのだね」
七兵衛が、如才なく後戻りをしてみせる、とその瞬間だけは郁太郎が納得しました。
そうして、物の二三間も歩いて、もうこの辺と、引返そうとすれば、郁太郎は、火のつくようにあがいて、
「いやだ、いやだ――与八さんの方へ……」
なだめても、すかしても、手段の利《き》かないことを七兵衛もさとり、一行の者が全くもてあましてしまいました。
「与八さんに送って来てもらえばよかったのにねえ」
お松でさえも愚痴をこぼすよりほかはないと見た七兵衛は、
「この子は、与八さんという若い衆が本当に好きなのだから、この子の心持通りにしてやるのがようござんしょう」
むずかる郁太郎を抱きながら、七兵衛は何かひとり思案を定めたようです。
七十六
沢井の道場に、ひとり踏みとどまった与八は、道場のまんなかで、涎掛《よだれかけ》をかけつつ、坐りこんで無性に泣いていました。
今晩は、全く静かです。
静かなはずです、先代の主人、自分の生命《いのち》の親たる弾正先生は疾《と》うに世を去り、まさに当代の主人であるべき竜之助殿は、天涯地角、いずれのところにいるか、但しは九泉幽冥の巷《ちまた》にさまようているか、それはわからない――最近になって復興して、竹刀《しない》の声に換ゆるに読書の声を以てした道場の賑わいも、明日からは聞えないのです。そうして、お松さんも、郁坊も、登様も、乳母も、あの人間以上と言ってもよい豪犬も、みんな行ってしまったから、今晩というものが、いつもの晩よりも、全く静かなのはあたりまえです。
こんな静かなところで、誰もいないのに、あの図抜けて大きな男が、ちっぽけな涎掛の紐のつぎ足しをして、それを首筋にかけ、大きく坐り込んで、ホロホロ泣き続けているのだから、人が見たら笑いものですけれども、今晩は笑う人さえいない。
幾時かの後、与八は急に飛び上りました。
「郁坊やあーい」
立って、道場の武者窓から外をのぞいて見たが、外は暗い。
「郁坊やあーい」
今度は、潜《くぐ》り戸《ど》をガラリとあけて外を見たけれども、外はやっぱり暗い。
いつもならば、この暗い中から、のそりとムク犬が尾を振って出るのだが、今晩はそれも無い。
「郁……」
と与八が咽《むせ》び上って、悄々《しおしお》と道場の真中へ戻って来たが、また飛び上って廊下伝いに、今度は母屋《おもや》へ向けて一目散に走りました。
「郁坊やあーい」
道場よりは幾倍も広い母屋は、幾倍も淋《さび》しい。
母屋のうちを一通り廻って見た与八は、また道場のところへ戻って来て、
「郁……」
でも、何か、外に未練が残るようで、耳を傾けました。
与八は物に動じない男、或いは動ずるほどの感覚を持っていない男ですが、今晩は特別に、何かの幻覚を感じているらしい。
咽《むせ》びながら静かにしていると、どうやら遠音《とおね》におさな児の泣く音がする。遠音とはいえ、思いきって近くも聞える。遠くなり近くなって、おさな児の泣く声。
それが気になって、与八は、居ても立ってもいられない様子です。
たまりかねた与八は、ついに草履《ぞうり》をひっかけて、表の方へ走り出しました。
よし、何のゆかりもない近所隣りの悪太郎の泣く声であっても、この物すさまじい静けさには堪えられないから、それで、当てはなくとも、泣く子の声でも聞いてみたくなったのでしょう。
ずっと、石段を下りて、街道筋まで走《は》せ出してみたが、また空《むな》しく道場へ立戻ってみると、道場の中で子供の泣く声がします。与八は自分の耳を疑いました。
道場の戸を外から押開いて見ると、提灯《ちょうちん》をつけ放しにして置いた道場の中のぼんやりした光線の間に、一人の子供がいる。
「郁……郁坊」
「与八さん」
「郁坊か」
「与八さん」
「郁……」
「与八さん」
「郁……」
「与八さん」
「お前、戻って来たのカイ」
「おじさんが……おじさんが連れて来てくれた」
「そのおじさんというのは?」
「知らないおじさんがここまで連れて来てくれて、すぐ帰ってしまったよ」
「そうか」
与八は確実に、郁太郎を抱き上げてしまいました。
七十七
その翌日は、門を閉し、広い屋敷のうちに人のいる気配《けはい》もなく、訪い来る人もありません。
万事は昨日で終り、あとへ残った与八だけが、この大門を締めて、そうして与八自身も出立してしまったものと、村人
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