は心得ているのでしょう。
 けれども、与八は残っているのです。郁太郎もまた、この家に留まっているのです。
 ただ、表の門を締めきって、二人ともほとんど、物の音も揚げないから、それで人が本当の留守と思っているのでしょう。
 与八は、今、室内の掃除をしています――掃除と共に物の整理です。整理というけれど、それはもう、ほとんど全部、お松の手で整理され尽していたから、いま、与八が整理にかかっているのは、与八の分として残されたものの整理です。それでも与八のために残された、当然、与八の所有物として残されたもののうち、大部分は人に分けてやってしまいましたから、今は、そう多分のものではなかったが、それを与八は、すべて一括してしまいました。
 一括して、どうするかと見れば、裏山へ持って行って、穴を掘って、その中へ投げ込んで暫く見ていました。その間というもの、郁太郎は絶えず与八に付ききりです。与八が母屋へ帰れば母屋、裏庭に出れば裏庭、道場へ戻れば道場――郁太郎は、絶えず与八につきつ纏《まと》いつしていたけれど、静かなもので、ほとんど一言も口をきくようなことはないのです。
 そこで、屋敷のうちは、いよいよ静かなものでしたが、裏庭へ穴を掘って与八は、一括したものを投げ込んだが、その上へ萱《かや》と柴を載せて、火をつけてしまいました。
 その火が、軽く燃え上ったところを、与八と、郁太郎が、静かに眺めていたのは夕方のことです。
 今、おもむろに焼けつつある一括《ひとくく》りの中には、数日前、お松が発見してくれた涎掛もあれば、臍《へそ》の緒《お》もあるはずです――そのほか、与八としては片時も離せない、意義のある人たちからの記念品も、みんなそれに入っていたようです。それを与八はみんな焼いてしまいました。お浜の遺骨を持って、郁太郎を背に負って帰って来た時以来の記念の品も、みんなここで焼いてしまったようです。
 それだけは取って置きなさいと、お松がいたら当然、忠告して差留めるであろうところのものまでも、与八は一切を穴に入れて、焼いてしまっているようです。記念というものは一つも残さないのがよい、と思っているからでしょう――
 それが燃えつくすのを、ゆっくりと二人は坐ってながめていましたが、いよいよ燃え尽したと見た時に、与八は鋤簾《じょれん》を取って静かに土を盛りました。

 その翌朝、まだ暗いうち、村人の一人も起き出ていない時分に、与八が郁太郎を背に負うて、今日こそは、この屋敷を発足するところの姿を見ました。
 それは、お松の一行は東へ――そうして与八は、西へ向って多摩川を溯《さかのぼ》るのです。
 背に子を負うているから、かぶることができないためでしょう、笠を胸に垂れて、そうしてささやかな一包みの荷物――草鞋《わらじ》脚絆《きゃはん》に、いつもするような無雑作《むぞうさ》な旅装いではあるが、ただ、いつもと変っているのは、与八の腰に帯びた一梃の鉈《なた》です――鉈という字、この場合彫と書いた方がふさわしいかも知れないが、それは、筏師《いかだし》がさすように筒に入れて籐《とう》を巻いたのを、与八は腰にさしています。
 与八として、こんなものを護身用として持たねばならぬ人柄ではないはずです。これは東妙和尚から授けられて、これによって、行くさきざきで、与八独特の彫刻を試みて、それで世渡り、旅稼ぎをしようとの用心にほかありません――
 行き行きて、その翌日、大菩薩峠の麓まで来ました。
 与八としては珍しくない道。自分の立てたお地蔵様はどうなっているか――それにもお目にかかりたいが、今日はそこでとどまる旅路ではない、峠の彼方《かなた》にはお浜の故郷もあれば、慢心和尚も待っている――今度はそれより先の道中、どうかするといずこの果てかで、弁信法師あたりにもぶつからない限りもないでしょう。

         七十八

 根岸に閑居の神尾主膳とお絹は、閑居は相変らず閑居に違いないけれど、このごろは、幾分か荒《すさ》みきった生活に経済的に潤いが出来たらしく、お絹は、しげしげと買物に出かけたり、家へ寄りつかないではしゃいでいることもあるのを以て見れば、どこからか水の手が廻っているものと見なければならぬ。だが、どこからといって、ほかから来るところがあるはずはない、多分七兵衛あたりが、さんざんに人を焦《じ》らした上で、その稼《かせ》ぎ貯めを、ぱっとばらまいたものと見るよりほかはないでしょう。
 七兵衛の奴は、稼ぎさえすればいいので、稼ぎためなんぞは存外、頭に置いていない男だから、自分が稼ぐことの興味と、労力とのほぼどの程度であるかということを、相手に納得させてやりさえすれば、その粕《かす》に過ぎないところの稼ぎためなんぞは、思ったより淡泊に投げだしてしまうに違いない。ところが、二人のうち
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