。まあ、ここに生年月が書いてある、生年月ではない、何月何日、武蔵野新町街道捨児の事……与八さん、この涎掛がその時、お前さんがしていたものなのよ。御先代様が、こうして丹念に取ってお置きになったのを、お前さんに見せる折の無いうちに、お亡くなりになったものと見えます。今日になって、これが出て来たのも、本当に因縁《いんねん》じゃありませんか」
「ああ、そうだったか――」
与八は、染色のあせた涎掛を、お松の手から受取って、両手で持ったまま、オロオロと泣き出しました。
それから三日目、村人や教え子が寄り集まって、留別と送別とを兼ねたお日待でしたが、いずれも事の急に驚いて、泣いていいか、笑っていいか分らない有様です。
「末代までも、この地にいておもらい申すべえと思ったに、こうして急にお立ちなさるのは、夢え見ているようでなんねえ」
と言って泣く者が多いのです。こんな時に、お松はかえって涙を隠す女でした。そうして、一層の雄々しさを見せて、人を励ますことのできる女でした。
「皆さん、会うは別れのはじめ、別れは会うことのはじめですから、どこの土地へ行きましょうとも、また御縁があれば、いつでも会われます、一旦はこうして立っても、またおたがいに、いつでも手を取り合って楽しめる時が来るに違いありません」
与八から言われたことをうけうりのようにして、お松が一生懸命に人々の心を励ましました。
その翌日は、もう、運ぶだけのものを馬に積んで、乳母《ばあや》と子供は駕籠《かご》に乗せ、お松はあるところまで馬で――七兵衛は途中のいずれかで待合わせるということにして、幾多の村人や、教え子に送られて、この地の土になるのかと思われていたお松は、綺麗《きれい》にこの地を立ってしまいました。
与八も、送ると言って、江戸街道まで姿を見せたには見せたけれども、自分が昔捨てられたという新町街道のあたりへ来た時分には、もう与八の姿は見えませんでしたが、お松は声をあげて、与八の名を呼ぶ勇気がありません。あの捨子地蔵のあたりへ来ると、面《かお》を伏せて声をのみました。
こうして、お松とすべてを立たせてしまったその夜――沢井の机の家の道場の真中に坐って、涎掛《よだれかけ》を自分の首にかけて、ひとりで泣いている与八の姿を見ました。
七十五
二里三里と、飽かずに送って来てくれる見送りの者を、しいて断わって帰してしまった時分に、どこからともなく旅姿の七兵衛が現われて来ました。
ここにまた不思議なことの一つは、いつも七兵衛の苦手であったムク犬が、最初から神妙に一行について来たが、今ここで不意に七兵衛が姿を現わしても、吠《ほ》えかかることをしませんでした。
温容に七兵衛の面《おもて》を笠の下から見ただけで、その後は眠るが如くおとなしくなっていることです。このことは、ほかの人にとっては、気のつかないことでしたが、七兵衛にとっては一時《いっとき》、力抜けのするほど案外のことでありました。
ムク犬が吠えない代りに、ちょうどこの前後に、駕籠の中の郁太郎が不安の叫びを立てたものです。
「与八さん、与八さん、与八さんはいないのかい、与八さん」
いまさら思い出したように、与八の名を呼びかけ、数え年四つになった郁太郎が、突き出されたように駕籠の外へ出てしまいました。そうして前後の人を見渡したけれども、ついに自分の叫びかけている人の姿が、どこにも見えないことを知ると、
「与八さん、与八さん」
覚束《おぼつか》ない足どりで、西に向って――つまり、自分たちが立ち出て来た方へ向って走りはじめます。
「郁太郎様、どこへいらっしゃる」
登を抱いていた乳母《ばあや》がかけつけました。それを振りもぎって走る郁太郎。馬上にいたお松も、馬から下りないわけにはゆきませんでした。
「郁太郎様――与八さんはあとから来ますよ」
「あとからではいけない」
お松のなだめてとめるのさえも、肯《き》かないこの時の郁太郎の挙動は、たしかに、平常と違っていることを認めます。
「与八さんは、あとから草鞋《わらじ》をどっさり、拵《こしら》えて持って来ますよ、だから、わたしたちは一足先へ出かけているのです」
「いや、いや、与八さんと一緒でなくては行かない」
「そんな、やんちゃを言うものではありません」
「いや、いや、与八さんと一緒でなくては……」
この時の郁太郎は、激流を抜手を切って溯《さかのぼ》るような勢いで、誰がなんと言ってもかまわず、その遮《さえぎ》る手を振り払って、西へ向って、もと来た方へ一人で馳《は》せ戻ろうと、あがいているのです。
お松でさえも、手に負えないでいるところを見兼ねた七兵衛が、
「与八さんは、あとから来るから、みんなで一足先へ行っているのだよ」
と言って、あがく郁太郎を、上からグ
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