上へ登って、大菩薩を越えて、塩山へ行くと恵林寺というので慢心和尚さんが、わしを待ってて下さる、あそこで何か彫らしておくんなさるに違えねえ……それから甲州路を西行をして、信濃から美濃、飛騨、加賀の国なんというところには、山々や谷々に霊場がうんとござるという話だから、そこへいちいち御参詣をしてみるつもりで、絵図面も、もう東妙和尚さんから描いてもらっている」
「与八さん――お前さんにそんなことを言われると、わたしは胸がいっぱいになって、何と言っていいかわからない」
お松が咽泣《むせびな》きをしてしまいました。
「なあ、会うは別れのはじめ、別れは会うことのはじめなんだから、歎くことはねえだあね。お松さんが、東の方へ行って船に乗り、わしが西の方へ行って霊場巡りをしたからといって、会える時節になれば、またいつでも会えまさあね」
「だって、与八さん……そんなに物事は、容易《たやす》く諦《あきら》められるものではありません」
「わしは不人情のようかも知れねえが、この間中から、それを考えていたね、どうもお松さんに相談したって、承知しちゃくれめえと思うから、黙って、ひとりでブラリと出かけてしまおうかと思ったこともあるだがね、そうすると、登様は、お松さんや乳母《ばあや》がついているから少しも心配はねえが、この郁坊、郁太郎さんがかわいそうだと思ってね……それだって、なにもわしがいなくても、やっぱりお松さんや乳母《ばあや》が、登様同様に可愛がって下さるから、少しも心配はねえと思っていたが、でも、今日まで、そこまでの踏《ふ》んぎりはつかなくっていたのを、今晩、お松さんから、こんな相談を受けてみると、わしがこのごろの心願も、言わずにゃいられなくなったのさ」
「だけども、与八さん、まあよく考えて下さい、今日までのことを考えて下さいよ、そうして、これからのことと思い合わせてみて下さいな。与八さんとわたしとは、こうしてずいぶん苦労もし合って、これまでになっているでしょう、それを私たちだけが東へ行って、与八さんだけを西へやっていられるものか、いられないものか。第一与八さん、お前さんだってあてどのない一人旅が、どんなに辛《つら》いものだか、今、この場のこととしないで、考えてみてごらん」
「そりゃあね、そりゃあ、わしだって人情というものがあらあね、今まで世話になったお松さんに離れたり、こんな頑是《がんせ》のねえ子供や、なじみになった皆さんに別れたり、それがどんなに辛いかを思い出すと、あれを思い立ってから、毎晩、涙が流れて枕が濡れちまったが――なんでも罪ほろぼしのためには、辛い思いをしなけりゃならねえ、お釈迦様は王宮をひとりで逃げ出してしまった、西行法師は妻子を蹴飛ばして出かけた、人情を一ぺん通りたち切ってみなけりゃ、仏の恩がわからねえ……こんなことをお説教で聞かされたもんだから、わしゃどうしても一度、罪ほろぼしのために、廻国の難儀をしてみなけりゃ済まされねえ……こう覚悟をきめてしまっていただね」
お松はたまり兼ねて、その時言いました、
「与八さん、お前は、何をそれほどまでにして、罪ほろぼしをしなけりゃならないほどの罪をつくったの?」
七十四
お松が力を尽し、言葉を極めての説得も、ついに与八の志を翻すことができませんでした。
それでも、お松の方もまた、与八ひとりのために、この幸福と、必然とを取逃がすわけにはゆかない人間以上の引力を、如何《いかん》ともすることができません。
そこで、おたがいに泣きの涙で、おたがいの導かるる方、志す方に向わねばならない羽目となったのは、予想外中の予想外で、そうして、なにもそれをしなければ、直接の生命に関するというわけではないにかかわらず、そうさせられて行く力の前に、二人が如何とも争うことができなかったのです。
翌日から、泣き泣きすべての出発の用意と、あとを整理することとに、働きづめであります。
あとを濁さないように――というお松の日頃の心がけは、この際に最もよく現われ、いつも蔭日向《かげひなた》のない与八の心情もまた、こういう際によくうつります。
持ち行くべきものは持ち行くように、あとに残して、蔵《しま》うべきものは蔵うようにしているうち、お松が一つの葛籠《つづら》の中から、一包みの品を見出して、与八に渡しました。
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「与八かたみのこと」
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と紙包のおもてに記してある。しかもそれは、先代弾正の筆に紛れもない。与八も奇異なる思いをしながら、それをほどいて見ると、守り袋が一つと、涎掛《よだれかけ》が一枚ありました。その守り袋を開いて見ると臍《へそ》の緒《お》です。紙包の表に書いてある文字を、お松が早くも読んでみると、
「与八さん――これは、お前さんの臍の緒ですよ
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