十二

 いつも、お松の提言に不同意を唱えたことのない与八、お松が案を立て、与八が実行する。
 お松が、与八に相談なしにする仕事はあっても、与八から一応、お松の諒解《りょうかい》を求めないということはないことになっている。
 それに今晩のお松の提案は、今までの提案中の提案で、ここの生活に革命を生ずるとはいうものの、その革命は、生木を裂くようなものではなく、極めて多望満々たる好転である。すべてにとって、天来の福音であって、且つ、実行をして些《いささ》かの危なげのないことをお松が信じているから、それで、いつもよりは、一層の晴々しさをもって、与八に提言してみたのは、むろん与八も二つ返事と信じきっていたのに、今晩に限って、この最良最善の提言を、与八の口から、仮りにも不同意に類する言を聞いたのは、意外中の意外でありました。
 そこで、お松はしばらく文句がつげなかったのですが、やがて、
「どうして……どうして与八さん、どう考えたのです」
「どうしてって、お松さん、ほんとうに済まねえが、今の話に、おいらだけは別物にしてもらいてえのだが」
「別物にして、お前さん、それでは、わたしたちと一緒に、房州の駒井様のところへ行くのはいやなの?」
「いやというわけではねえが、少しわしにはわしだけの考げえがあるから、別にしてもらいてえ。といって、わしらのほかの者は、お松さんのいう通り、ほんとうにそれが渡しに船で、願ってもねえことだから、そのようになさるがいいだ、そのようにしなけりゃなりましねえ。わしらだけ別にしてもらいてえというのは、わしらには、その前から一つ願をかけたことがあるだあ」
「願をかけたって、それはどうしたことですか、何様へ、どんな願がけをしたのですか」
「いや、何様へ何をという、目に見えた話ではねえんだ、わしらは、いつかある時期を見て、日本中を歩いて一巡《ひとめぐ》りして来てえと思ってたでね」
「日本中を一巡りって、与八さん、一人でそんなことを……」
「一人じゃねえんだ、わしぁ、この郁太郎さんをおぶって、そうして、日本中の霊場巡りをして来てえものだと思って、ひとりで願をかけているのだから、その願を果さねえうちは、船で外国へ行く気にはなれねえのだから、ちょうどいい折だから、お松さんはみんなを連れて、その殿様のお船とやらへ行って下せえ、わしぁこれから廻国《かいこく》に出かける」
「まあ」
 お松は与八の言うことに眼を円くしてしまいました。それは、一にも、二にも、十にも、百にも、今まで自分というものの提言に反《そむ》いたことのない与八が、今、自分の口からこういうことを言い出した以上は、到底、翻すことができるものでないということを、直覚してしまったからです。
 それは、頑固《がんこ》で、片意地で言い出したのと違い、この人が、この際、こんなことを言いだしたのは、もうよくよくの深い信心か、決心から、多年に※[#「酉+慍のつくり」、第3水準1−92−88]醸《うんじょう》されていたのだから、容易なものではないと、お松がそれに圧倒されたから、ほとんどあとを言い出すことすらできなくなってしまったのです。
 けれども、お松としては、この際、どうしても、与八のこの決心を翻えさせねばならない、と思いました。
 与八ひとりだけを残して、自分たちがすべてこの生活を移すということは、情に於ても、理に於ても、忍べないことだと思いました。そこで、暫く途方に暮れていたお松が、別の方面から与八を説きつけにかかりました。
「そんなことを言ったって、与八さん、そりゃ無理なことですよ、どうして、ひとりで日本中が廻れますか、第一食べても行かなけりゃならず、路用も少ないことじゃないでしょうし……」
 実際の生活と、経費の問題からさとらせてゆこうとしたが、与八は更に動ずるの色なく、
「ええ、そのことは心配ねえんです、わしらは、この一本の鉈《なた》を持って行きますよ」

         七十三

 与八は郁太郎にかけていた片手を離して、帯に吊《つる》してあった一梃《いっちょう》の鉈にさわってお松に見せ、
「わしは、東妙和尚さんから、この鉈を使うことを教えられている、これが一梃あれば、どうやら、物の形が人様に見せられるようになったから、これを持って、彫物《ほりもの》をしながら、日本中を歩いてみてえつもりだ」
「まあ……では、永い間の心がけね」
「ああ、東妙和尚さんもそう言わっしゃった、与八、それだけ腕が出来たら、もう田舎廻《いなかまわ》りの彫物師の西行をしても食っていけるぞい、と言われました時から思い立ちました、行くさきざき、何か彫らしてもらっては、草鞋銭《わらじせん》を下さるところからはいただき、下さらねえ時は、水を飲んで旅をしてみようと、心がけていたですよ、お松さん。そうして、まずこれから
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