「どうれ」
と、隠形《おんぎょう》の印も結びもすっかり崩して、まず最初から、飲みたくて堪らなかった水を飲もうとして、井戸の方へそろそろと歩んで行くと、その井戸側から、人が一人、ひょろひょろと這《は》い出して来たには、驚かないわけにはゆきません。以前の、御用提灯、打割羽織《ぶっさきばおり》には、さほど驚かなかったがんりき[#「がんりき」に傍点]の百が、井戸側の蔭から、ひょろひょろと這い出して来たよた[#「よた」に傍点]者に、まったく毒気を抜かれてしまいました。
だが、幸いにして、こちらも多少の心得があるから、見咎《みとが》められるまでには至らなかったが、もう一息違って、ぶっつけに井戸へ走ってしまおうものなら、大変――このよた[#「よた」に傍点]者と鉢合せをするところであった。
いいところで、またごまかして、今度は高札場の石垣の横に潜み直していると、井戸側から出たよた[#「よた」に傍点]者は、がんりき[#「がんりき」に傍点]ありとは全く知らないらしく、這い出して来て、前後左右を見廻し、ホッと一息ついたのは、つまりこの点に於ては御同病――いましがた、立って行った御用提灯、打割羽織の目を忍ぶために、自分が柳の木の蔭で平べったくなっていると共に、このよた[#「よた」に傍点]者は、井戸側の蔭に這いつくばって、その目を避けていたのだ。
つまり自分の隠形は立業であるのに、このよた[#「よた」に傍点]者は寝業で一本取ったというわけなのだ。二人とも、やり過してしまってから業を崩し、ホッと息をついて、のさばり出たのは同じこと。
がんりき[#「がんりき」に傍点]が石垣の蔭からよく見ていると、手拭を畳んで頭にのせ、丸い御膳籠《ごぜんかご》を肩に引っかけた紙屑買《かみくずか》いです。
紙屑買いだといって無論こういう場合には油断ができないことで、なお、よく注意して見ると――がんりき[#「がんりき」に傍点]は商売柄で、夜目、遠目が利《き》く――手にがんどう[#「がんどう」に傍点]提灯《ぢょうちん》を持っているところなどは、いよいよ怪しい。
そこで、ともかくも、こいつのあとをつけてみなければならないことだと思いました。一応、その行動を見届けてやる必要があると思いました。
そうして、暫くそのあとをつけてみた後に、がんりき[#「がんりき」に傍点]が唖然《あぜん》として、自分をせせら笑ってしまいました。
こいつは生え抜きの紙屑買いだ。紙屑買いというよりは、紙屑拾いの部に属すべきもので、がんりき[#「がんりき」に傍点]ほどの者が、あとをつけたりなんぞするほどの代物《しろもの》ではない――何だって気が利《き》かねえ、飛騨の高山まで来て、紙屑買いの尻を追い廻すなんぞは、七兵衛兄いの前《めえ》へてえ[#「てえ」に傍点]しても話にならねえ――というのは、こいつが焼跡へ忍んで行くから、その通りついて行って見ると、その焼跡を鉄の棒でほじくって、そこで金目になりそうなものは、雪駄《せった》の後金《あとがね》であろうとも、鎌の前金であろうとも、拾い集めて銭にかえようとする商売だけのものです。
夜陰忍んで来たのは、万一この焼跡から、小判の一枚か、金の指輪の一つも掘っくり[#「掘っくり」に傍点]返した時の用意。その時に権利者に出て来られたり、縄張り争いが起ったりしては厄介と思うから、そこで、夜陰こっそり忍んで来ただけのものです。第一、紙屑買いとしての御膳籠の背負いっぷりからして、最初から板についている。
大笑いだ――だが、ここまで来た上は、また柳の木の下へ引返すのも、なおさら気が利《き》かない。といって、これからわっしの行くところはドコです、とたずねるのも一層気が利かない。第一、それをたずねようにも、たずねる人はあたりになし、ようし、一番、この屑屋をからかってやれ、相手にとっては少々不足だが、時にとっての慰みだ、一番からかってやれ――かくてがんりき[#「がんりき」に傍点]はやや暫くあとをつけていたが、頃を見計らって、小声で、
「お爺《とっ》さん」
紙屑屋の肩を後ろから叩くと、屑屋は一たまりもなくへたへたとひっくり返ってしまいました。
五十五
「お爺さん」
と肩を叩いたら、直ぐにへたへたとひっくり返ってしまい、もう腰が抜けてしまって動けないらしいから、がんりき[#「がんりき」に傍点]は苦笑いをしながら、屑屋の耳に口を当て、
「お爺さん、驚いちゃいけねえよ、わしは怖《こわ》いもんじゃねえ、道中筋をちっとばかり寄り道があって、たった今、この飛騨の高山というところへたずねて来て見るてえと、高山は一昨日《おととい》こんな大火事で、たずねて来た人の立退先がわからねえんだ、それで途方に暮れているところへ、お前の姿を見たもんだから、呼びかけてみただけのものな
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