ゆばねえかよ」
二度《ふたたび》、引絞ってみたけれども、馬は両脚を揃えて進むことを躊躇《ちゅうちょ》している。
「どうした、うむ」
馬子は手綱をたぐって、近く寄って馬の鼻づらと足許を見たけれども、特別の異状があるとも思われないから、
「これ、さ、早くあゆべよ、つい一口よばれちまったもんだから、手前《てめえ》にも夜道をさせて気の毒だった、明日は休ませっからあゆべよ」
この馬子は、馬をいたわること厚く、威嚇を以て強行を強《し》いることをしないのは、しおらしいところがある。松倉大悲閣へ参詣のための馬だから、馬には荷物が無い、負担は至って軽いのに、足が重くなるとはどうしたものだ。
急にひきつったか、怪我をしたか、馬子は案じて、もしやと、足蹠《あし》をしらべにかかってみました。沓《くつ》が外れて、釘でも踏みつけたか。
こう思って馬子が、充分に馬場へ背を向けきって、馬の足もとを調べにかかったが危ない。病根は足にあるのではなく、最初からゆくての馬場の桜の大樹の蔭に、一個の人影があったから、馬は怖れをなして立ちすくんだまでのことです。馬の心を知らない人間は、原因をよそのところに見ないで、痛くもない馬の足をさぐりはじめたものですから、背中はがらあきにあききっている。
「どう、さあ、足を見せろ」
足を見たが、これは最初から何も異状がない。
「さあ、歩《あゆ》べ」
再び馬の前に立って、背を馬場に向けきった馬子は、馬に向ってはこう言うけれど、態度から見ると、「屈《こご》んでて悪けりゃ、こう立ったらいかがなもの、ここんところをすっぽりおやんなすっちゃ」と言わぬばかりの姿勢です。
それを桜の木蔭から、一歩ずつ近よって見すましていた覆面が、申すまでもなく机竜之助であって、まだ刀の柄《つか》へも手をかけないで、木蔭からはなれて来たのだが、馬子が馬の腹へ廻って、馬の検査をはじめた時に、勝手が悪くなったとでも思ったのでしょう、ちょっと立ちつくしたが、ちょうど今、馬の鼻面に立って、背中を充分こちらへ向けきったと思われた時分に、はじめて手にしていた杖を地上に取落しました。
この時です――両足を揃えて進むことを肯《がえん》じなかったその馬が、やにわに高く一声いなないて竿立ちになってしまったものですから、馬子が大あわてにあわてて、必死にその轡面《くつわづら》にブラ下がったものですから、今の姿勢がまた一変してしまいました。
「どう、ドウしたというだなあ、別に病気でも、怪我でもねえらしいに、わりゃ狂気したか」
こう言って、馬子が必死にブラ下がったことによって、いったん竹の杖を地にまで落した覆面が、刀の柄に手をかける瞬間を遠慮してしまいました。
食い下がられて、馬は二三度、轡面を強く左右に振ったが、そのまま速力をこめて前面への突進をはじめました。
「ああこん畜生、こん畜生、引っかけやがったな」
無論、馬子は手綱に引きずられて、宙に振り廻されながら、綱に取りついて、走り行くのです。
そのあとを茫然《ぼうぜん》として見送るかの如き竜之助。
人を斬ろうとしたのか、馬を斬ろうとしたのか、馬と人ともろともに斬ろうとして、そのいずれをも斬りそこねたのか――蹄《ひづめ》の音はカツカツとして、やがて闇に消えてしまいました。
五十
けれども馬子の方では、どこまでも、馬が狂い出したと思っているでしょう。それがために、自分をこんなヒドイ目に逢わせやがる、こん畜生! と自分の馬を憎みながら、自分の馬に振り廻されて、馬場から町外《まちはず》れ、益田街道を南に、まっしぐらに走《は》せ行くことをとむることができません。
どこの百姓か知れないが、おそらく、この馬子は、かなり人のいい方であっても、この馬の狂乱を理解することができないで、家へ帰ってから後、相当に馬を譴責《けんせき》することでしょう――もし、乱暴の主人でしたなら、危険の虞《おそ》れある荒《あば》れ馬として、売り飛ばすか、つぶしにすることか知れたものではない。
つまり、馬に暴れられたのでなく、馬に救われたのだという理解があれば、人間は幸福だったのですが、馬の心は、人の心ではわからない、人の心は、馬の心ではわからないものがある。
佐久間象山が、京都の三条通木屋町で、肥後の川上|彦斎《げんさい》ともう一人の刺客に襲われた時、象山は馬上で、彦斎は徒歩《かち》であったから、斬るには斬ったが、傷は至って浅かったから、象山はそのまま馬の腹を蹴って逃げ出したのを、ついていた馬丁《べっとう》が馬の心を知らない――単に馬が狂い出したものと見て、走りかかる馬のゆくてに、大手を拡げてたち塞がったものだから、馬が棒立ちになったのを、追いすがった刺客が、おどり上って、思う存分に象山を斬ってしまった。これこそ実に日本一
前へ
次へ
全81ページ中40ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング