野《とりべの》の煙できれいな灰となってしまって下さい。
 南無阿弥陀仏――とお雪ちゃんは合掌して、念仏を申しました。

         四十八

 宿が、特別の注意をもって周旋してくれたこの寺の書院住居は、かなり広い。
 それから、ともかくも北原さんへの手紙を書いてしまい、久助さんを使に出してしまってみると、なおさら広い。
 この広い座敷へ、今宵は相当に夜具もあてがわれて、竜之助とお雪ちゃんは別々に寝ました。
 今夜はどんな夢を見せられるか知れないが、お雪ちゃんはやっぱり、気苦労と疲れがあるものですから、夜半近くにぐっすりと眠りに落ちました。
 お雪ちゃんが、もう正体もなく眠りに落ちたと見た時分――それはどちらからいっても丑三頃《うしみつごろ》でしょう、竜之助が静かに起き上りました。
 そうして燈下で何か動いているかと見れば、それは頭巾《ずきん》をかぶっているのであって、頭巾をかぶるまでには、もう、常の身仕度はすっかり出来ていたのです。そうして刀をさしながら、お雪ちゃんの夜具の裾を通って、襖を細目にあけたとしても、それは、あの油断のない米友をさえ出し抜いたことのある足どりですから、お雪ちゃんが気のつきようはずはありますまい。
 こうして竜之助は裏庭から、まもなく塀の外へ出ました。
 竹の杖を一本ついて、そうして徐《おもむ》ろに、山を下って、高山の町の方へ出て行く物腰は、曾《かつ》て甲府の躑躅《つつじ》ヶ崎《さき》の古屋敷を出た時の姿と少しも変りません。
 坂道を下りつくし、町の巷《ちまた》に出て小路《こうじ》の中に姿を没したと見えたが、その後は、どこをどうして徘徊《さまよ》うているか消息が分らない。
 人間に自由を与えるべきものではないのです。自由は人間よりは豚に多く与えらるべきもので、一人の人間に自由を与えると、必ずその結果が他の人間の自由を迫害する結果となる。そのために、天が特に竜之助の如きから両眼の明を奪い、身体《からだ》の健康を殺《そ》いでいるのに、そうでもしなければ、仮りにも、こんな人間を、この人間の共存共栄であるべき社会には生かしておけないはずなのに、それでも、なお不安なところから、お雪ちゃんという保護者をつけ、名も白骨という人間離れの地へ追いやって置いたのにかかわらず、その白骨の地を一歩離れて、この高山の町へ送り出したのが、そもそも運の尽きです。
 飛騨の高山は、甲斐の甲府よりはいっそう山奥だとはいえ、一方より言えば、甲府よりはいっそう上方《かみがた》の都近いのです――来《きた》り遊ぶ人が、誰も飛騨の高山を※[#「けものへん+葛」、第3水準1−87−81]※[#「けものへん+僚のつくり、145−7]《かつりょう》の地というものはなく、これに「小京都」の名を与えて、温柔の気分を歌わぬものはありません。
 森春濤は曾《かつ》てこういって「竹枝」をうたいました――
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楼々姉妹、去つて花を看《み》る
閙殺《だうさつ》す、紅裙《こうくん》六幅の霞
怪しまず、風姿の春さらに好きを
媚山明水小京華
暖は城墟《じやうきよ》に入つて春樹|香《かん》ばし
はしなく嗾《そそのか》し得たり少年の狂
遊塵一道、半ば空に漲《みなぎ》る
花は白し春風、桜の馬場
[#ここで字下げ終わり]
 飛騨の高山はこういう艶っぽいところであります。事実が、詩人の艶説だけのものがあるや否やは知らないが、少なくともこううたわるべき風趣情調を持っているところです。
 こういうところへ、今時、こういう人間を放ち出すのが、よいことでしょうか。ただ、時が春風駘蕩《しゅんぷうたいとう》の時ではないが、ところはたしかに桜の馬場。
 それと、この小都を震駭《しんがい》させた大火災のあとですから、人心は極度に緊縮されてはいるけれど、土地そのものが本来、そういった艶冶《えんや》の気分をそなえているものであれば、絆《きずな》を解かれて、ここへ放浪せしめられた遊魂はおどらざるを得ないでしょう。
 はしなくも、桜の馬場の前を、この夜中に躍《おど》って過ぐる馬があります。この馬は、近在の山郷から材木を積んで来た馬ではありません。また火事のために臨時駄賃取りをかせぐために近村から出て来たものでもありません。その花やかに装い飾っているところを見れば、天正年間に飛騨の国司、姉小路宰相中将が築いた松倉古城のあとの、松倉大悲閣へ参詣しての帰り道でしょう。その証拠には美々しく装い飾った馬の背に、素敵に大きな馬を描いた絵馬《えま》がのせてあります。

         四十九

 今まで勢いよくはずんで来たこの馬が、馬場の手前まで来ると、急にすくんでしまったのが不思議。
「どう、あゆばねえか」
 馬子は、手綱《たづな》をひっぱってみたが、馬は尻込みをするばかり……
「どう、あ
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