をしたとか思っていらっしゃるかも知れませんが、そういうわけではございません。あれから平湯へ出て、そうして高山へ着いたのですが、皆さんを出し抜いた罰かも知れません、ここへ来て火事に逢いました。火事に逢って何もかもすっかり焼いてしまいまして、ほんとうに着のみ着のままです。旅のことですから、ほかに相談する人は無し、こんな困ったことはありません」
[#ここで字下げ終わり]
 お雪ちゃんは、ここまで筆を走らせてきたけれども、その次の文言につかえてしまいました。
 なるほどここまでは、事実をすんなりと直叙したのだから、スラスラと書けましたが、これから、どう書いていいのか、自分たちの困っていることは事実だが、この困っているのを北原さんにどう処分しろというのか、それが書けないので、筆が渋っているうちに、縁の障子のところへ鶏が上って来たものですから、それを追い卸すためと、渋った頭を晴らすために、つと立って障子を押開いて見ました。
 障子を開いて見ると、意外にパッと開けた風景を見せられてしまいました。

         四十七

 おお、ここからながめると、高山の町が一目に見渡せて、朝もやが渡っている景色こそ、ほんとに目がさめるようです。
 引きうつるのを、ワザと夜にのばして昨夜――今朝ほどは少し霧がまいていたので、遠望が利《き》かなかった。それに万事多忙で、風景に見惚《みと》れている余裕がなかったものとも思われますが、今となって、はじめて、この寺の見晴しのよいことに感心させられてしまいました。
 故郷の月見寺も悪いところではないが、山谷がこれよりはずっと迫っていて展望を妨げる。
 こうして見ると、行き悩んだ筆の疲れを休めて、目の下の風景を指呼してみたくなるらしく、お雪ちゃんは、見ゆる限りのところに於て、あれかこれかと目移りがします。
 焼野が原は、一層かっきりと、その半ば炭化しかけた材木だの、建前だのが燻《くす》ぶって、まだ臭いと余燼《よじん》をくすぶらしているのがよくわかる。それと、焼残りのある部分が、毛のくっついたように、ハッキリと見分けられる。人家の災難と無災難とに頓着なく、町を割って流れる宮川の流れもよく見える――その宮川を標準として、焼け残った橋の形から見当をつけて行ってみると、自分の泊っていた宿屋のあたりと、それから線を下へ引いてみると、あの一むらの川沿いの木立、その下が、仮りの二夜の宿となった屋形船のもや[#「もや」に傍点]っていたところ。なるほど、船もあの通り見えている。
 筆を半ばにして、お雪ちゃんはその活きた地図に線を引いていたが、昨日までもや[#「もや」に傍点]っていた屋形船のところに至って、はっ! と胸が早鐘をつくように鳴り出したのは、それと多くも隔たらないところの、川原の中の蘆葦茅草《ろいぼうそう》の中から、今しも盛んに火が燃え出したところです。
 またしても火事! と災難の再来に狼狽《ろうばい》したのではありません。その火と、火事の火とはおのずから性質の違うこともわかっているし、またあんなに、川原の中で火事を起すはずもなし、起したからとて、前回のような危険をもたらすおそれはないが、その火の手の揚った地点から、今まで忘れるともなく、忘れていたような浅ましい光景が、むらむらと、あの火の煙よりも濃く、お雪ちゃんの頭に湧き上ったからです。
 あんな怖ろしいこと――あれが、ほんの少しの間だが、今まで忘れられていたようなのが不思議なくらいです。あれをあれっきりで納めて見向きもすまい、思い出しもすまいとの全努力が、ようやくお雪ちゃんを、ここまでにしていたのが、あの燃え出した火と、それから煙が、お雪ちゃんの頭を、つむじ[#「つむじ」に傍点]のように旋回させてしまいました。
 ああ、ああして石を置いて、せめて、犬や狼の凌辱《りょうじょく》から救って置きたい――イヤなおばさんの最後の肉体に対しての、自分の為し得た好意と親切の全力が、あれだけのものであった、あれより以上には、何をしてあげる力も無かったのだ。混乱の頭と、おのずから血走るような眼で、それを見詰めていたお雪ちゃんは、結局、あの地点はあそこに相違ない、そうして今、火をあんなに盛んに燃やしはじめたのは、わかりきっている、ほかへ運ぶことをしないで、あのままで薪《たきぎ》を積んで、イヤなおばさんの死体を焼きはじめたのだ。
 ごらん! 人が集まって来ている、薪をたくさんに運んで足している、イヤなおばさんはああして焼かれている。白骨で、長いこと水の中へ漬けられていたイヤなおばさんの死体は、今は思う存分の薪を加えられて、焼かれている。
 せめて、今度こそは、思いきり焼かれてしまって下さい、おばさん。
 水にも、火にも、業《ごう》の尽きなかったおばさんの魂魄《こんぱく》、今度こそは、あの鳥辺
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