まなかったので、これをしお[#「しお」に傍点]に、無暗に働いて見せました。
そうして、その晩のうちに相応院へ引きうつるように、一切の準備をととのえたけれども、お雪ちゃんとしては、何をどうしたか夢中でありました。
ただ、あの雑草の中の存在物をば、一切思うまい、見まい、として急いだだけのものでした。
ひっこしは夜でした。それが済むと、たまらない思いで、お雪ちゃんは枕に就いてしまいましたが、その夢いっぱいに蟠《わだかま》ったイヤなおばさんの面影。
白骨の湯で、小紋縮緬を着た、あのイヤなおばさんが、だらしのない恰好《かっこう》をして寝そべって、股《もも》もあらわにして、その投げ出した足を浅吉さんに揉《も》ませている、浅公は泣きながらそれを揉んでいる、イヤなおばさんは、ニヤニヤと笑いながら、何とも言えない色眼をつかいながら、誰やらの膝にしなだれかかっているところを、お雪ちゃんが夢に見ました。
まあ、おばさん、なんとだらしのない恰好! と見ていると、そのおばさんのしなだれかかっている膝の主は、横向きになっているわたしの先生――じゃありませんか。
イヤな! お雪ちゃんは、名状すべからざる不愉快で、その時ばかり、遮二無二《しゃにむに》、おばさんを引っぱって、そのだらしのない恰好をやめさせようとしましたが、その途端のこと、イヤな色眼をつかって、ニヤニヤしていたおばさんの首のところから、一つの手が現われて、それがグッとおばさんの面《かお》から首を、後ろから捲いているのを見ました。
まあ、先生も先生――あんなイヤな真似《まね》を……とお雪ちゃんが、いよいよたまらない浅ましさで、見ていられない気になると、その後ろから廻った手が、じんわりとおばさんの首を締めてゆくのに気がつきました。
ニヤニヤと笑っていたおばさんの顔の相が変る――と思うと、そこが青い沼で、その底知れない沼へ、今のおばさんがまっさかさまに沈んで行くのを見て、お雪ちゃんが、あっ! と言いました。
四十六
事実を人に語らないくらいですから、夢を語ろうはずがありません。お雪ちゃんは一切に目をつぶり、口をつぐんで、その夜を明かしましたが、目がさめてみると、なんとはなしに上野原の自分の家へ帰ったような気がしてなりません。
どのみち、お寺のことですから、構造に共通したもののあるのはあたりまえで、特にお雪ちゃんが、上野原の自分の家によく似ている住居と感じたのは、旅に出てから、宿屋にばかり落着いて、旅籠《はたご》気分に慣れていたせいでしょう。こうして見るとお雪ちゃんはまた現前生活の人となりました。
久助さんが、専《もっぱ》ら当座の衣食のために奔走してくれている。宿屋の主人が、旅中での災難を気の毒がって、いろいろ世話をしてくれるけれども、何を言うにも、当人の家さえ丸焼けになったのですから、細かいところの世話は焼けません。
お雪ちゃんに、味噌漉《みそこし》をさげさせまいとして、給与の品や、米を持って来て、とにかく、当座に事を欠かないようにする久助さんの骨折りを見ると、お雪ちゃんは、またまたこの人をまいてしまおうとしたたくらみの心を、自分ながら悔います。
そうして、この寺で一夜が明けて、朝になって見ると、お雪ちゃんは、いよいよ自分の故郷の寺の住居が、庭ごとそっくりここへ移されたのではないか知らと疑ったほど、よく似ていると思いました。
それがためにお雪ちゃんは、懐かしい気持から、なんとなしに落着いた気分も出て、一時は、このお寺を永久の住居に借りてしまったら、とまで思いだしたくらいでした。
だが、朝の食事のチグハグを見ると、もうそんな気分ではいられないと思いました。いつまでも、火事見舞の給与品に甘んじているわけにはゆかないことを思うと、一刻も早く、この急を救う道を考えねばなりません。
それは今に始まったことではなく、初めから考え続けていたのですが、どうしても「遠くの親類よりは近くの他人」となって、その近くの他人のうち、まず、こんなことを相談してみようという相手は、白骨にいた宿の人たち、わけて、懇意にしていた北原さんに越したことはない。あの人に手紙を書いて、久助さんに持って行ってもらおう。白骨まで少し無理かも知れないが、あの人の足ならば一日で行ける――
お雪ちゃんは、チグハグな朝飯を済ますと、座敷の一隅の机のところに行って、北原賢次への手紙を書きはじめたものです。
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「北原さん、白骨を立つ時はしみじみ御挨拶も申し上げないで、ほんとに済まないことだと存じております。けれども、それにはそれだけの事情がありまして、病人やなんぞの好みもあるものですから、皆さんには御挨拶無しで出て参りました。さだめて皆さんは、雪は夜逃げをしたとか、駈落《かけおち》
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