まりお雪ちゃんをして、気絶もさせない、逆上もさせなかった一つの事情でありました。
それで、はあはあと嵐のような息をついて、屋形船の一方の柱にとりついて、お雪ちゃんがためらっていると、それとは知らぬ、土手の往来に面した一方の片側で、久助さんと、堤上を通る旅人との問答、
「存じません」
これは久助さんの返事。
「知らない、では古川を経て、越中の富山へ出る道はドレだ」
「ええ、それも存じませんでございます、何しろ……」
「それも知らないのか。三日町から八幡《やわた》の方へ行くのはどうだ」
「お気の毒でございますが、何しろ、昨日今日……」
「やっぱり知らないと申すか。しからば、船津へ出る道、そのくらいは知っているだろう」
「それもその……」
「それも知らんのか。では、いったいこの宮川という川は、越中へ行くのか、加賀へ向うのか、結局、どこへ落ちるのだ」
「え、その辺も……」
「加賀の白山、白川道は知ってるだろう」
「それもその……」
土手で横柄《おうへい》にたずねるのは、この辺の百姓町人の類《たぐい》でないことはわかっているが、人もあろうに、久助さんに土地案内を聞くとは間違っている。まして焼け出されの、西も東ももうげんじ[#「もうげんじ」に傍点]ている際の久助さんをつかまえて、あんな手厳しい尋ね方をする方が間違っている。けれども、久助さんも久助さんだ、知らない、知らないとばかり言わず、もう少しテキパキした返事の仕様もありそうなものと、少し息が静まるにつれて、お雪ちゃんは久助さんの返答ぶりを歯痒《はがゆ》いものに思いました。
こちらに聞いているお雪ちゃんが歯痒く思うくらいだから、尋ねている先方の横柄な旅人は、もっと業《ごう》が煮えたらしく、
「何を聞いても知らぬ、知らぬという。役立たずめが……引込んでおれ。時に丸山氏、いずれこの宮川べりを伝うて行けば、出るところへ出るだろう、出たとこ勝負としようかなあ」
「それもよろしかろう」
こう言って、土手をさっさと歩み去ってしまう旅人は、たしか二人連れのようです。
お雪ちゃんは、見るともなしに、背伸びをして見たら、今、船の蔭を外《はず》れて、土手の上をあちらに向って歩み去る二人の旅人。
それには、たしかに見覚えがあります。
いのじ[#「いのじ」に傍点]ヶ原で、わたしたちの一行にからみついて、あの、すさまじい光景を捲き起した浪人たち。ついこの間は、不意に白骨の温泉へやって来て、宿にわだかまり、あの前の方へ進んで行く大きい方の人が、わたしの眼を後ろから押えて、どうしても放してくれなかった気味の悪い人。そのくせ、巌のように節くれ立った手が、氷のように冷たかったのを覚えている、あの人たちに相違ない。
その名は仏頂寺弥助と、もう一人は丸山勇仙。肩で風を切って堤を歩いて行くが、こちらから見ると、足許《あしもと》がフラフラして、まるで足が無くって歩いているようです。
四十五
お雪ちゃんは、やっと船の中へ転がり込んで、もう起き上ることができません。
頭が火のようで、眼が車のように廻るのです。それをじっと抑えて、何も言わずに、ただ伏しまろんでしまいました。
現在、そこにいる竜之助に向って、思うさまこの怖ろしい見聞を、ブチまけてみようと意気込んだのも、ここで、その勇気すらなくなってしまいました。
見るべからざるものを、二度まで見たのです。平湯峠の上で、戸板の覆いが外《はず》れた時に見たのは確かに、あのおばさんなら、たった今、ここで見た棺の中の死人も、別の人であろうはずがない。
あの時、叫ぼうとしたのを、じっとこらえて誰にも言わなかったくらいだから、ここでも胸を抑えてしまった方がいい。わたし一人が納めていさえすれば、このイヤな思いを、人にうつすことだけは免れる。
本当に、魂魄《こんぱく》があって、わたしたちについて廻っているとしか思われない、あのイヤなおばさん……
お雪ちゃんは必死になって、今、まざまざ見た、棺の蓋の外れのあのイヤなおばさんの死面《しにがお》のまぼろしを掻《か》き消そう、掻き消そうとつとめたけれども、これはどうしても消すことができません。
いっそ、先生に、洗いざらいブチまけてしまえば、いくらか頭が休まるかと思いましたが、それをこらえていればいるほど、イヤなおばさんの幻像が、自分の息を詰まらせるほどに圧迫して来るのを、どうすることもできません。
横になってしまって、必死に息をころしながら、お雪ちゃんはまるくなりました。
「どうかしましたか、お雪ちゃん」
久助さんが、軽く見舞の言葉をかけると、
「いいえ」
と打消して、わざと元気に起き直って見せましたけれども、その面《かお》の色ったらありません。幸いにして久助だから、別段に面の色が悪いともなんとも怪し
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