さんです。
四十三
不思議な圧力で、それを充分に見届けさせられて、お雪ちゃんは、その圧力が解けたと見た時分に、自分の周囲を襲いかかる、またも不思議な有形動物の形に驚かされました。
「叱《しっ》! 叱!」
それは思いがけないことでしたけれども、有り得ない動物ではありません。
このあたりに彷徨する野良犬が五六頭、雨降りの時候でもあるまいに、まっしぐらにくつわを並べて、このところまで飛んで来て、息をフウフウ吹きながら、棺の廻りに走《は》せつけ、飛びついたり、はねかかったり、臭気をかいだり、上へ乗ったり、下をくぐったりして、この寝棺を取巻くのでした。
「叱! 叱!」
お雪ちゃんは、この時、自分ながらわからない一種の勇気が出て、有合わせた薪の太いのを持って、群がる野良犬に向いました。
お雪ちゃんの、竹の棒の音に驚かされた野良犬は、それに一応の挨拶でもするように、一応は飛び退くけれども、忽《たちま》ち盛り返して、以前のように棺に向って飛びつき、狂いつき、或いは蓋の外《はず》れを歯であしらって向うへ突きやり、その有様はどうしてもくっきょうの獲物《えもの》――御参《ござん》なれ、われ勝ちにという浅ましさのほかにはありません。
お雪ちゃんはあしらい兼ねました。全くこの犬共はお雪ちゃんの手には余るのです。
でも、犬共は、人間に対する敬意を以て、お雪ちゃんの小腕ながら、その振り上げた杖には、一応の遠慮をするだけはしますが、その影がこちらへ動けば、もう犬共はひっついて来ます。お雪ちゃんの振り上げる杖の瞬間だけに敬意を払って、それが戻るとすぐにつけ入ってしまいます。
「叱! 叱!」
お雪ちゃんをして、もう自分の力ではおえないと覚《さと》らしめて置いて、そのうちの最も獰猛《どうもう》なのがその策杖《さくじょう》の二つ三つを覚悟の前で、両足を棺へかけて、鼻と口を、棺の中へ突込んでしまって、後ろに振動した尾を、キリキリと宙天へ捲き上げてのしかかっています。
「おや、こりゃ犬じゃない、山犬じゃないか知ら、狼じゃないか」
お雪ちゃんが、その一頭の獰猛と貪婪《どんらん》ぶりに身の毛を立て、こう思ってたじろいだのも無理はない形相《ぎょうそう》でしたが、事実は、やっぱり野良犬の一種で、狼や、山犬に属するものではなかったようです。ただ、飢えから来るところの不良性が、極度に、この動物を、獰猛と、貪婪と、残忍の色にして見せたものでした。いかに、本来温良なる家畜動物も、飢えと放縦とに放し飼いをすれば、それは猛獣以上の猛悪を現わすことはあります。
それと同じことに、いかに温和なる人間も、非常の時には、そうして、人間の権威を他動物に向って示さねばならぬ時は、別人と見えるほどの勇気を、どこからか持ち来《きた》すものと見えて、苟《いやし》くも人間の死体の神聖を冒涜《ぼうとく》せんとする不良性動物の僭越と、兇暴とに対し、かよわいお雪ちゃんが、その全力を挙げて擁護の任に当らなければならない覚悟と、力とを与えられたことは、案外のものでした。
お雪ちゃんは、片腕にかかえていた薪《たきぎ》を振捨て、片手に持っていた杖に全力をこめて、僅かに棺の中へ首を突込んだ山犬に似た奴を思いきり打ちのめして、さすがに驚いてハネ返ったところを、手早く棺の蓋《ふた》を仕直して、しっかりと押え、そうして、早くもその手近にあった手頃の石――手頃の石といっても、ふだんのお雪ちゃんならば、ほとんど持ち上げることもむずかしかろうと思われるほどの大きさと、重さとあるのを両手にウンと持ちあげて、それを、いま蓋を仕直したところへ重しに、ドッカとのせてしまいました。
この間《かん》の働きは、お雪ちゃんとしては見られないほどの早業と、力量とを持っていましたが、それをするともう大丈夫と思ったのか、下へ投げ捨てた薪を、またも小腋《こわき》にかいこむと共に、走り出しました。
後をも見ずに走りました。
四十四
そうして、お雪ちゃんは、屋形船のところまで帰って来たのですが、その時は、もう口が利《き》けませんでした。
船べりにとりついて、はあはあと激しい息をついているのです。
もしこの時に別の事情がなかったならば、お雪ちゃんは一時、その場で昏倒してしまったかも知れません。また、もし船の中へ走り込む元気があったならば、いきなり、竜之助の膝にしがみついて、うらみつらみを並べたかも知れません。
そのいずれでもなかったのは、ちょうどこの際、船の向う側の一方で、久助さんの声を聞いたからです。しかもその久助さんが、何かその向うを通行の人と、かなり高声で会話をしていたのが、お雪ちゃんの耳に入ったものだから、この危急の際に、辛《から》くも踏みとどまって、多少の遠慮の心を起したのが、つ
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