の間抜け馬丁、刺客にお手伝いをして、主人を俎《まないた》にのせてやった馬鹿者――こんな奴こそ、馬に噛み殺させてやりたい、踏み殺させてやりたい。
 こうして、馬と人とに理解のないということが、大きな不幸をめぐらすと共に、大きなる恵みをもたらすのです。しかし、理解のないことは、どちらも同じことで、象山の馬が、日本一間抜けの馬丁《べっとう》に制裁を加える資格も、能力も無い如く、今度のこの馬丁も、自分が馬のために救われていたということは、永久に理解することができないで、これから後の、この馬の履歴書には、「いい馬だけれども、不意に引っかける癖があってあぶねえ」という申し分がついてしまいましょう。
 ところで、この理解のない馬は、今晩、そのほかにもまた一つの功徳《くどく》を作っていることを自ら知らない。
 それは今晩、ゆくりなくも嚇《おどか》された音無しの怪物に、飛騨の高山へ来てから最初の、血祭りの刀を抜かせなかったということは、やはり重大なる功徳の一つであったに相違ないと思われるが、やっぱり、この功徳を誰も知る者がなく、称《たた》える者がなく、感謝する者もない。
 音無しの怪物からいえば、この時に馬子を斬ろうとしたのは事実で、斬ろうとするに、その風向きを見はからっているうちに、馬に奔逃《ほんとう》されて、斬るべき機会を失って、我ながら呆然《ぼうぜん》として、見えぬ眼に走る馬を見つめて、暫く立ち尽していたことも本当です。
 ことさらに解説するまでもなく、今晩、このところで、この馬子を斬らねばならぬ必要も意趣も、寸分あるのではない。馬子風情を……といったところで、斬った時の斬り心地には、馬子も、大納言も、さして変りあるべしとは思われない。
 この男が馬子を斬ってみようとしたのは、御用金を奪おうという経済の頭から出たのではなく、芝居気たっぷりの片手斬りに大向うを唸《うな》らせようという見得《みえ》から出たのでもなく、はしなく嗾《そそのか》し得たり少年の狂――と春濤がうたった通りの、土地の空気がさせた魔の業と見るよりほかはないでしょう――尤《もっと》もこの男ははや少年の部ではないが、血気はまだ必ずしも衰えたりとは言えますまい――こうして、苦笑いしながら地上に落したところの杖を取り上げて、越中街道の闇に、行先は、ただいま逃げた馬と同じ方向ですが、目的としては、高山の町の目ぬきのあたりへ現われようとするに違いない。

         五十一

 このたびの大火にあたって、いつぞや、宇津木兵馬が触書《ふれがき》を読んだ高札場《こうさつば》のあたりだけが、安全地帯でもあるかのように、取残されておりました。
 歯の抜けたような枝ぶりの柳の大樹までが、何の被害も蒙《こうむ》らずに、あの時のままですが、今晩この夜中に、天地が寂寥《せきりょう》として、焼野が原の跡が転《うた》た荒涼たる時、その柳の木の下に、ふと一つの姿を認められたのは、前の桜の馬場の当人とは違います。
 その者は、三度笠をかぶって、風合羽《かざがっぱ》を着た旅の人。
 いつのまにやって来たか、この寂寞《せきばく》と荒涼たる焼跡の中の、僅かな安全地帯に立入って、柳の木の蔭に立休らい、いささか芝居がかった気取り方で、身体をゆすぶって、鼠幕のあたりを、頭でのの字を書いて見上げたところ、誰か見ている人があれば、そのキッかけに、「音羽屋《おとわや》!」とか「立花屋《たちばなや》!」とか言ってみたいような、御当人もまた、それを言ってもらいたいような気取り方だが、あいにく誰もいない。
 人の見ていると見ていないに拘らず、こんな見得をしたがる男で、一応見得を切っておいて、それから左の手を懐中へ入れて、ふところから胴巻のようなものを引き出した形までが、いちいち芝居がかりで、引き出してから押しいただき、「有難え、かたじけねえ」と来るところらしいが、そんなセリフは言わず、胴巻のようなものの中からあやなして、何を取り出したかと見れば、竹の皮包は少々色消しです。
 でも、包みの中を開いて見るまでは、舞台に穴を明けるほどの色消しにもならなかったが、やっぱり片手をあやなして、竹の皮包をいいあんばいに開いて、中身をパックリと自分の頤《おとがい》の上へもって行ったところを見ると、色男も食い気に廻って、さっぱり栄《は》えない。いい男が、いいかげん気取ったしな[#「しな」に傍点]をして、懐中から取り出した一物が何かと見れば、それはつけ焼きの握飯《むすび》であって、それをその男が二つばかり、もろにかじってしまいました。
 これががんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵といって名代(?)のやくざです。
 いつのまに、このやくざ野郎、こんなところまで来やがった?
 先日来は、尾張名古屋の城のところで、金の鯱《しゃちほこ》を横眼に睨《にら
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