見えにならないから議論にはなりませんが、この一重ねは、あのおばさんが白骨で、わたしに自慢で見せたものです。あのおばさんのことだから、年にしてはずいぶん派手過ぎますのを、お雪ちゃん、あなたに譲りましょうか、そのうち、高山から着替が届くから、そしたら、これをあなたにあげるから、仕立て直してお召しなさいなんて、おばさんが言いながら、自慢に着出したのを覚えています。あなた、まあ、ごらんなさい、この通り」
「驚くべきめぐり合わせだな」
「全く驚いてしまいます、久助さんが帰ったら、早速聞いてみなければなりません、この着物を、どこでどうして手に入れたか、それをよく問いただしてみましょう」
「久助さんには、そんなことはわかるまい」
「久助さんに分らないにしても、これを久助さんに渡した人からたずねてみればわかるはずです、わからせずにはおきません」
「わからせて、どうするね」
「どうするのだといって、先生、こんなものが身につけておられますか」
「といって、本人に返してやるわけにもいくまい」
「それはそうですけれど……あんまり因縁《いんねん》も過ぎますからね、何とかしなければ、あのおばさんの恨みが、どこまでついて廻るか知れません」
「恨みが消えないのだ」
「いいえ、わたしは、あのおばさんに恨まれるようなことは、決してしてはおりません、もし、わたしたちについて廻っているとすれば、あのイヤなおばさんは、死際《しにぎわ》に、何かわたしたちに思い残すことがあって、それを言いたいがために附いて廻るのかもしれません」
「そんなことかも知れぬ」
「そうだとすれば……わたし、変な気になってしまいます、イヤなおばさんはイヤなおばさんに違いないけれど、わたしに対して、何もイヤなことをしたわけじゃなし、わたしを贔屓《ひいき》にして、ずいぶん可愛がってくれたおばさんなのではなかったか知ら……」

         四十一

 お雪ちゃんは、ここでなんだか今までの無気味な、陰惨な気分が、どうやらあわれみの心に変ってゆくように、自分ながら気が引けてならなくなりました。
「あのおばさん、決して悪い人じゃないわ、わたしには、悪い人とは思われない」
「好きな人かな、あれが」
「好きとはいえないけれど、人が、イヤなおばさん、イヤなおばさんというほど、悪い人じゃないと思われて仕方がありません」
「それでも、お雪ちゃん、お前は今まで、やっぱりイヤなおばさんで通して来て、その噂《うわさ》を持ち出されてさえ、逃げたではないか」
「皆さんが、イヤなおばさん、イヤなおばさんというから、それでわたしもイヤなおばさんにしてしまったのではないか知ら。いったい、あのおばさんのどこが、イヤなおばさんなのでしょう」
「うむ――どこといって聞かれては、わしにもわからないがね、いい年をして、若い男を可愛がるなんぞは、ずいぶん、イヤなおばさんの方じゃないか」
「浅吉さんのことですね……ですけれどもね、年上の女の人が、若い男を可愛がるのはいけないことか知ら。いいえ、それはいいことじゃないにきまっていますが、浅吉さんの方にもイケないところがあると思うわ」
「どっちにしても、いい年をした亭主持ち――ではない、後家さんが、若いのをつれて温泉に入りびたって、ふざけきっていることは、人の目にいい感じを与えはしまい」
「それはそうですけれど……世間に類のないことじゃなし、体裁のいいことじゃありませんけれど、殺してやるほど憎いことじゃありませんね」
「そうか知ら」
「ですから、不思議なのね、蔭ではみんなイヤなおばさん、イヤなおばさん、と言いながら、表ではみんな追従《ついしょう》して、あのおばさんを座持に立ててしまって、あのおばさんの命令が、夏中の白骨の温泉いっぱいに行われたじゃありませんか。ただイヤなおばさんだけなら、たとえ表面のお追従にしろ、人があんなに従うはずがありません。やっぱりあのおばさんはあれで、あの人だけの人徳を持っていたのじゃないか知ら」
「そうか知らん」
「わたしに向っても、ずいぶん親切でした。イヤなおばさんだから、そのつもりでいなくちゃいけないと思いながら、わたしは、ついついあのおばさんの親切にほだされてしまっていたんですね」
「結局、お雪ちゃんのためには、イヤなおばさんではなく、好きなおばさんだったのか」
「好き……好きとは言えませんけれど、イヤがる理由がなくなってしまいます」
「では、やっぱり好きなおばさんなのだ。その好きなおばさんであればこそ、白骨からこっちへ来る間、お雪ちゃんについて廻り、昨夜も、お雪ちゃんが寒かろうと心配して、わざわざその約束の着物を持って来てくれたものかもしれない」
「ずいぶん気味が悪いけれども、そう取れば取れないことはありませんのね。あのおばさんの魂魄《こんぱく》が、わたしたちを恨
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