き》というものが無いのを例とする。
 人が動いている時と、騒いでいる時は、人間がその最も弱点を暴露した時なんだが、人間はかえって、充実と沈黙を怖れないで、活動と躁狂、宣伝とカモフラージュとに恫喝《どうかつ》される。笑止!
 お化けだってそうである、出て来た時はすでに、人間に未練という弱味があって来るのだから。ベルゼブルだってそうです、人間にとりつくのは、自分の腹がすいているからなのである。若い男は若い女の情けに飢えているから夜遊びをする、若い女はまたそれを待構えて、その飢えに食《は》ませたり食んだりする――ついでに言っておくが、恋というものにかぎって、食えば食うほど飢えを感ずるもので、恋の飽食ということは、結局、尻尾《しっぽ》だけを残して食い合う猫のようなものです。人はパンのみにて生くるものではない、恋も食い物である、愛も食い物である、イカサマも食い物であり、ペテンも食い物である。動物の中には、夢をさえ食い物にして生きているものがあるというではないか。
 今、東経百三十七度十六分、北緯三十六度九分のところ、海抜五百六十三メートル八八のあたりを音無《おとなし》の怪物が動き出したということも、つまりは飢渇を感じ出したからです。飢渇といわなければ、空虚といってもよろしい。
 つまり、その食物を求めんがため、食物で悪ければ充填物《じゅうてんぶつ》を、さがし求めんがために、ふらふらと歩き出したのだが、ここは果して甲府の城下ではない、また大江戸の市中ではない、城気の疾《と》うに失せていた飛騨の高山のことではあり、この高山も、目ぬきの大半を祝融氏《しゅくゆうし》の餌食《えじき》に与えているのだから、この怪物に余された獲物《えもの》というものは、どんなものか知ら?

         三十六

 有る、有る。
 尾花だの、萱《かや》だのの中に、竹煮草《たけにぐさ》とか、ごまめ菊とかいったような雑草がすがれている。一口に言えば蘆葦茅草《ろいぼうそう》の中の川原の石の磊嵬《らいかい》たるところに、置き捨てられたまだ新しい白木の長い箱が一つある。
 これは昨晩、お雪ちゃんをおびやかした白木の寝棺《ねかん》です。あの娘《こ》は一目見たきりで、おびえて逃げたけれども、この怪物にとっては、これもまた餌食にはなるらしい。惜しいことにこの幽霊は、足許は確かだが、眼が利《き》かないから、眼前に横たわる好下物《こうかぶつ》を、気取《けど》ったことは気取ったが、そのものの質を知ることはできないのです。
 白木の寝棺を距《へだた》ること、ほぼ一間のところで、立ちどまって、うかがっているのは、その寝息を見るもののようです。
 宮本|無三四《むさし》は、佐々木|巌柳《がんりゅう》を打ち倒しても、まだその生死のほどを見極めるまでは、近寄ることをしなかった。それは無三四に限ったことではない、ワナを上手に外《はず》す動物は、どんな好餌《こうじ》があっても、そうガツガツと、いちずには近寄ることをしないものです。
 ここに、俄然、一つの食べ物を感得したからといって、一概に貪《むさぼ》りかかることをしないのは、武術の達人の残心のうちの一つと称すべく、知恵ある動物の陥穽《かんせい》を避ける心がけと言ってもよい。それそれ、果して、この寝棺の一端が動き出したではないか。
 寝棺が動き出すということが、もう只事ではない。
 こっちがその心で、じっと気合を伏せて見まもっていたものだから、先方も、もう我慢がしきれなくなって、化けの皮を現わしてしまったのだ。
 死人を入れることにのみ専用するものと見せた寝棺が、生きて動き出した。こういうことがあるから、人を殺せば、血を見なければならないというのだ。敵に斬られることよりも、斬って止めを刺すことを忘れた武士の方が、うろたえ者と言われる。
 果然! 寝棺の一端が動き出して、死人が物を言いました、
「御免下さいやす、つい、ほんの出来心でおましてな、悪い気でやったんじゃございませんのや、寒いもんでおますで、女房や子のやつが寒がっておますやでな」
 死人がこういって物を言い出したのみならず、ペタリと、石川原の上へ、へばりついてしまって、大地に両手をついて、額《ひたい》をその間に埋めて、ベルゼブルにおわびをするのです。いやまだどっちがベルゼブルだかわからない。
 竜之助は、そのお詫《わ》びの言葉を充分に聞き分けてしまいました。
「何をしているのだ」
「どうも、悪い気で致したのやおまへん、焼け出されでおましてな、女房子が寒がるもんやで……つい」
「つい、そこで何をしていたのだ」
「はい……これを一枚だけ、ちょっと、ほんの一晩のうち、お借り申したいことやと存じましてな」
 訊問する者も、訊問される者も、わからない。
「では、御免下されましてな……」
 ペタペタと砕
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