っしゃいました」
「それがね、たしかにあの方とは思いますけれども、もしやと思って、何とも申し上げないで帰って来ました」
「それは、惜しいことをしました、何とか御挨拶《ごあいさつ》を申し上げてみればよかったのに」
「御挨拶なら、いつでもできると思いましてね、実はそのおさむらいさんが、お代官所の役人様たちと一緒に、お救い米やら、救助方やらに骨を折っていらっしゃるので、ずいぶんお忙がしいようでしたから、ほんとうに御親切に、わたしを見かけて、あちらではお気がつきませんのですが、ただの焼出され人だと思って、お米を下さる、着物を下さる、この乾物《ひもの》も持って行けと、こんなに恵んで下さいました。あんまりお忙がしいようでしたから、ツイその事も申し上げませんでしたが、なあに、ああしてお代官所にいらっしゃるのだから、いつでも御挨拶はできますが、それは私が申し上げるより、お雪さんが行ってお話しになると、いちばんわかりがいいと思いました」
「ほんとうにそれは珍しい。もしあの時の旅のおさむらいさんでしたら、よいところでお目にかかったもの、明日にもわたしがお訪ね申してみましょう」
「そうなさいまし」
 お雪ちゃんは、あの夜のことを思い出しました。果して、それがあの時のさむらい、宇津木兵馬様であるやらないやらは懸念《けねん》のことだけれども、今日の場合では、他人の空似《そらに》であっても、心強い感じがする。
 明日は北原さんへ手紙を書くことのほかに、もう一つ用事が出来た。それは、そのお方をおたずねしてみることだ。本当にあの若いおさむらいさんならば、北原さんよりもいっそ手近で、打明けて相談のできる人、ほんとに他人でない気持がする――今の先、いやなおばさんの記憶で悪くした気を、この久助の報告で、お雪ちゃんがすっかり取返しました。
 こんなような、あわただしい混乱のうちに、夜になったから、この一晩を、また屋形船の中で明かすことになりました。
 昨晩は、火事をよそにして、いくらも残らない夜明けを、あんなにして明かしてしまったが、今晩はもう一人、久助さんというものが来ていて、狭い船の中が賑《にぎ》やかです。
 それでも、昨晩からの疲れが烈しいものですから、お雪ちゃんは、薄着のことも気にならず、たあいなく眠りに落ちてしまいました。久助さんもまた同様で、二人とは少し離れたところにゴロリと横になると、やはり疲れがさせる鼾《いびき》の声。
 ひとり、竜之助だけが眠れないものですから、そろそろと起き上りました。

         三十五

 立ち上った時には、竜之助は、昔、甲府城下の夜の時したように、その後は、本所の弥勒寺長屋《みろくじながや》にいた時分の夜な夜なのように、面《かお》を頭巾《ずきん》に包んでいました。
 ただ、今宵は、自分の今まではおっていた羽織だけを脱いで、それをどうするかと見ると、寝息をたよりに、お雪ちゃんの体の上へ、ふわりとのせて置いて、それで自分は煙のようにこの船の中を外へ出てしまいました。
 その足どり、ものごし、手に入《い》ったようなもので、人間そのものがここを脱け出したとは思われません。煙が一むら、すうっと、窓を抜けたようなあんばいに、いつしか、竜之助は屋形船の外の人となっていました。
 外へ出ると、天地は、飛騨の高山の宮川の川原の中です。
 川原の中を、すっくすっくと歩み行く竜之助、久しぶりで壺中《こちゅう》の天地を出て、今宵はじめて天と地のやや広きところへぬけ出したから、この辺から雲を呼んで昇天するというつもりでもないでしょうが、ほんとうに久しいこと、自由な天地を歩きませんでした。
 昔は、こうして、夜な夜な、外を歩いて、血を吸わないと生きていられない気持でしたが、白骨の湯壺が、しばらくの間、この毒竜を封じ込んでいたものでしょう。それが飛騨の高山へ来て、今晩という今晩、その封が切れたようです。
 黒い頭巾と、白い着物と、二本の刀が閂《かんぬき》にさされたのが、すっくすっくと川原を歩んで行き、そうして水溜りとか、蛇籠《じゃかご》とかいうようなものの障《さわ》りへ来ると、ちょっと足を踏み止めて思案の体《てい》に見えるが、まもなく、五体が魚鱗のように閃《ひらめ》いたかと見ると、いつのまにか、その障碍を越えて、あなたを、すっくすっくと歩んでいる。
 およそ物体が動き出したということは、生きていることの表現であって、同時に生きようとする努力であると見ればよろしい。
 生きようとする努力はすなわち、飢渇というものに余儀なくされていると見ればよろしい。人間にあってもそうです、人間が動き出した時はたいてい、飢えた時、そうでなければどこぞに空虚を感じた時のほかはないと見てもよろしい。
 そこで、満足した人はたいてい沈黙する、充実したところには痕跡《こんせ
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