で、暫く静かである間、例の、
「早く戻らんせやい」
「早く帰ってござらせ」
という叫び声を、うるさく小耳にしないわけにはゆきません。
 半ば習慣的に繰返される野卑なる哀音も、竜之助の耳に、「帰るに如《し》かず」と囁《ささや》くようです。お雪が言いました、
「ほんとうに耳ざわりですね、先生、いくら呼んだって、叫んだって、死んで行く人を呼び戻すことなんか、できやしませんね」
「そうさなあ」
「でも魂魄この世にとどまりて……ということもありますから、ほんとうに人間の魂は、死んでも四十九日の間、屋の棟に留まっているものでしょうか」
「いないとも言えないね」
「そんなら、あのイヤ[#「イヤ」に傍点]なおばさんなんて、まだ魂魄が、白骨谷か、無名沼《ななしぬま》あたりにとまっているでしょう、怖いことね」
「左様、あのおばさんの魂魄は、もう白骨谷には留まっていまいよ」
「どうしてそれがわかります」
「飛騨の高山が家だというから、いまごろは、高山の方の屋の棟にかじりついているかも知れない、それとも途中、この温泉場が賑《にぎ》やかだから、今晩あたり、この宿の棟のあたりに宿っているかも知れない」
「イヤです
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