ぱり何ともいらえがない。
「ほんとうに……眠っておいでなさるんでしょうか、先生」
 お雪は狼狽《ろうばい》の上に、不安の心をうかべて、井戸側深くのぞき込むようにすると、人の姿はいよいよ、ありありと見えるけれども、一向にうけこたえのないことが、またいよいよ明瞭であります。
 本来、鎧櫃の中というものは、一匹一人の人間を容れるには足りないものであります。せいぜい十代の少年ならばとにかく、普通の大人一人が、鎧櫃の中にいることは至難の業であります。ましてその中で酣睡《かんすい》を貪《むさぼ》るなどということは、あり得べきことではありません。
 それだのに、ありありと見える中の人は、立派な一人の成人であって、それは身体骨柄《しんたいこつがら》痩《や》せてこそいるけれども、月代《さかやき》はのびてこそいるけれども、押しも押されもせぬ中年の男性が、身にはお雪と同じような白羽二重に、九曜の紋のついているのを着て、鎧櫃の一方の隅に背をもたせかけて、胡坐《あぐら》をくみ、そうして、蝋鞘《ろうざや》の長い刀を、肩から膝のところへ抱くようにかいこみ、小刀は腰にさしたままで、うつむき加減に目をつぶっているのであ
前へ 次へ
全163ページ中18ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング