は最初のうちは英主が出たが、いけなくなったのは五代|継友《つぐとも》あたりからのこと。それは例の徳川八代将軍の継嗣問題《あとつぎもんだい》で、当然、入って将軍となるべく予想していた尾州家が、紀州の吉宗のためにしてやられ、それから自棄《やけ》となって、折助政治をやり出した、それがいけないということを、道庵は婉曲《えんきょく》に歴史を引いて論じてきました。
将軍職を紀州に取られてから、継友が自棄となり、放縦となり、幕府に対しての不満が、消極的に事毎に爆発し、ついに幕府は間者を侍妾として送り、継友を刺殺せしめたとの説がある――継友が夭死《わかじに》して、宗春の時になると、吉宗の勤倹政治に反抗するために、あらゆる華奢惰弱の風を奨励した時から、いよいよ精分が抜けてしまった。もう、そうなっては、英雄なんぞは出ろといったって、こんなところへ出て来やしねえ。出て来るものは、女郎屋と、酒場と、踊りと、お祭礼《まつり》と、夜遊びと、乱痴気だけのものだ。
まあそれでも、本家の徳川にまだ脈があったから、尾張だけが腑抜けになっても、亡びはしなかったがね――もうそれからは、ぬけ殻のようなものさ……
この辺ま
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